【大学受験・日本史】岩槻礼次郎内閣についてのまとめ

岩槻礼次郎内閣についてです。歴代内閣のうち、入試やテスト出る内閣を取り上げていきます。第一弾が、岩槻礼次郎内閣です。それでは、【大学受験・日本史】岩槻礼次郎内閣についてみていきましょう。

岩槻礼次郎内閣

  • 1926年憲政会を与党とし第1次内閣をつくったが、台湾銀行救済問題で退陣。
  • 立憲民政党を与党として、第2次の内閣をつくったが、満州事変を収拾できず総辞職し、犬養毅内閣とかわった。

<参考>
尾崎幸雄、犬養毅らは、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに第一次護憲運動を展開。第一次世界大戦直前には、シーメンス事件の発覚により、世論の批判を受けて、第一次山本権兵衛内閣が総辞職。
確認【大学受験・日本史】大正初期の政治・第一次護憲運動

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憲政会

1916年10月10日,藩閥官僚政治に対抗して政党政治を確立しようと,立憲同志会,中正会,公友倶楽部の一部が合同して結成。同志会の加藤高明が初代総裁。尾崎行雄,高田早苗,浜口雄幸,若槻礼次郎らが加わった。

立憲民政党

立憲政友会と並ぶ昭和初期の大政党。憲政会と,立憲政友会から分裂した政友本党とが合同して 1927年6月1日結党した。総裁に浜口雄幸,顧問に若槻礼次郎,床次竹二郎,武富時敏,山本達雄らが就任。

満州事変

第二次岩槻礼次郎内閣のときには、関東軍が柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破して、それを中国軍のしわざとして軍事行動を起こす。この事件を起こしたのは、この機会に満州(中国東北部)を占領しようとした関東軍でした。1932年、満州事変中の斉藤実内閣のときに日満議定書を締結。

満州事変後、コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して反ファッション人民戦線を企てたとして山川均ら左翼知識人が逮捕、弾圧されました(人民戦線事件)。
確認【大学受験・日本史】日中戦争と軍部の台頭についてのまとめ