【高校地理】アジア州のポイントまとめ

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【高校地理】アジア州のまとめです。

中華人民共和国の工業

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中国工業の遍歴

以前までの中国は、半植民地的状態であったから、関税によって自国の工業を保護・育成をできず、近代的な工業発展が阻まれていた。わずかな工場も、大部分が外国資本によるもので、ほとんどが沿海地域に立地していた。綿紡績工業はイギリスや日本の資本により

  • シャンハイ(上海)
  • テンチン(天津)
  • チンタオ(青島)

などの沿海都市に集中していた。

中華人民共和国の成立後

中華人民共和国の成立後、鉱工業の建設はおもに旧ソ連の援助によったが、1960年の中ソ対立後は、自力で進めた。まず、鉱産資源の開発から始め、北西では従来のユイメン(玉門)油田が拡張され、クラマイ(克拉瑪依)が開発された。現在は、東北・ 華北が主要産地で

  • ターチン(大慶)油田
  • ションリー (勝利)
  • ターカン(大港)

などがこの地域の工業化の基礎となっ ている。

中国の石炭

石炭は、日本やイギリスの資本による炭田がフーシュン(撫順)をはじめ東北地方や華北の沿海地方にあった。さらに、内陸部や長江以南でもあらたに開発された。そのほか、鉄鉱石・ タングステン・マンガン・錫・アンチモニーなども開発された。これらの資源は、国営・集団経営の企業によって開発され、数次の5カ年計画のなかで、鉄鋼・機械・自動車・化学肥料・ 石油製品などの生産を中心に、重化学工業化が進展した。

中国の新しい工業都市

以前の沿海地域に立地していた工業都市の改良・拡張が行なわれ、他方、内陸部では資源立地の

  • ターチン・ランチョウ(蘭州)
  • トーコウ(渡口)

などのあたらしい工業都市が建設された。

中国の経済特区

最近では、先進国の進んだ技術や資本を導入して近代化を進め、

  • シェチェン(深圳)
  • チューハイ(珠海)
  • スワトウ(汕頭)
  • アモイ(厦門)

に設定の経済特区や沿岸都市に設けられた経済技術開発区では、種々の優遇措置がとられ、雇用の増大と輸出産業の育成がはかられ、シャンハイ郊外には、外国との技術協力によって新鋭の製鉄所が建設されている。

世界の工場としての中国

改革・開放政策への転換以降、中国経済の発展はめざましい。とくに、安い労働力によって製品を安く製造できることから、当初は中国に工場をおき、海外から原材料を輸入し、製品を海外に輸出する、一種の腰掛け(間借り)工業であった。したがって、沿岸の上海・天津・コワンチョウ(広州)など、沿岸に工業が集中した。

やがて、日本や欧米諸国の大企業が、製造コストの削減をはかって、製品の生産拠点を中国に移してくると、部品工場や付随する商業・サービス業も進出し、中国は「世界の工場」となった。

世界一の生産を誇っているのは、家庭電化製品(冷蔵庫・電子レンジ・洗濯機)、電子情報機器(DVD・携帯電話・パソコン) など、組立加工業を中心とした労働集約型の産業であるが、鉄鋼・石油化学・自動車などの素材工業や大型組立工業も工場設備を一新し、急速に生産を伸ばしている。

中国の研究・開発

研究・開発部門は本社機能と並んで大企業の母国におかれるのが普通であったが、中国の安くて良質な労働力を用いることが、グローバル化した企業にとって魅力があるからである。中国人全体の所得水準が上昇して、自動車・家庭電化製品などを購入し、中国は「市場(消費地)」としても、世界経済に大きな影響を持つようになった。

とりわけ高所得層は、総人口の10%だけでも日本の人口に相当するだけ存在するのであるから、その市場規模は大きい。安い単純作業に向く労働力と部品工場のない工業として、繊維や食品の軽工業は、外国資本の進出の先駆けとなった。しかし、賃金の上昇とともに、一部は東南アジアに転出していくか、所得水準のまだ低い中国内陸部に入っていった。

中華人民共和国の農業

高校地理 中国農業

高校地理 中国農業

中国は、第一次産業人口の比率が高く、コメ・小麦・甘蓄・馬鈴薯などは世界第一の生産国であり、トウモロコシや果物、野菜類でも世界で1、2を争う。しかし、膨大な人口がそのほとんどを消費し尽し、輸入も多いのが特徴。
復習【高校地理】中華人民共和国の工業まとめ

人民公社

中華人民共和国の誕生により、農村ではいち早く土地改革が行なわれ、没収された地主の土地が貧農や小作農に分配された。しかし、生産力を高めるために、その零細な農地を集団化し、1958年に人民公社を発足させた。ここでは農作業を集団で行ない、収益は作業量におうじて各農家に配分された。

自家農園

農作業に必要な機械の修理工場を持ち、地方の衣料品・道具類の需要にこたえる生産活動を行なった。各家庭に自由に使える自家菜園(自留地)が与えられ、そこで得られる野菜や豚などの収益は、個人のものとなった。面積は全耕地の5~7%であったが、その野菜生産量は、全野菜生産量の半ばを占めた。しかし、集団作業では、個人の技術や努力に関係なく、収入が平均化されるため、農民の生産意欲が低下した。

生産責任制

生産責任制は一定量の生産物を供出すれば、超過分は各自の所有となり、創意工夫も生かせるため、 商品作物を中心に生産量を著しく増加させた。そこで、1982年には人民公社の行政と生産の分離が決められた。

中国の主な農業地域

おもな農業地域は、万里の長城以北の東北地方と、長城以南のチンリン(奏嶺)・ホワイ(進河川)を境とする北の華北地方、南の華中・華南地方の3地域に大別される。

  • 東北地方…1年1作で、春小麦・大豆・ジャガイモ・大麦などを栽培したが、革命後は水稲・トウモロコシなどの栽培が盛んになった。
  • 華北地方…1年2作あるいは2年3作で、冬小麦・水稲・トウモロコシ・コウリャンなどが栽培されている。
  • 華中・華南…1年2作か、水稲の二期作と裏作を含めた1年3作が行なわれており、ほかに茶・サツマイモなどが栽培されている。

中央アジアの概要

中央アジアは、日照時間が長く気温も十分であるが、降水量が少なく、ステップ・砂漠気候帯で、広く羊・山羊の放牧が営まれていた。また山地からの河川を利用した灌漑耕地では、綿花・小麦・果樹などが栽培され、豊かなオアシス農業がみられ、古代から東西の交通路上に都市が栄えていた。仏教もイスラム教も、この地を通って伝えられた。 この地方は。地下資源も豊かではあるが、帝政ロシアに征服され、いわば植民地となった。

牧畜
西アジアや中央アジアでは、乾燥に強い羊やラクダなどを飼育し、乳や肉を食料にしています。遊牧を行う地域もあります。しかし、地下水や大きな川の水を利用できるオアシスでは、小麦、野菜、果物などの栽培をしています。

ロシアの統治

ロシア人は少ないが、長いロシア統治下でロシア語が共通語となり。ロシアの主導するCIS (独立国家共同体)に参加している。ヨーロッパ・アメリカ合衆国の軍事基地がつくられ、ロシア人の流出はあるものの、ロシアとの関係はなお強い。諸共和国の領域は、ソ連時代に定められ、ロシアに対するモノカルチャー的な綿花や鉱産物の供給地であった。

モノカルチャー
単一の農産物や鉱山資源たよった経済

自然改造計画

1951年からの第五次五カ年計画は自然改造計画と呼ばれ、ボルガ・ドン運河の開通のほか、現在のトルクメニスタンの砂漠を灌漑するカラクム運河の建設が進められ、広大な灌漑耕地が開かれた。しかし、それにともなう灌漑水路網の整備によって耕地は拡大したが、取水されたアムダリアのアラル海への流水が減少し、アラル海は干上がって収縮し漁業は放棄され、砂漠にはのざら漁船が野ざらしになっているありさまである。

中央アジアの環境問題

過剰な灌漑用水の摂取とともに化学肥料の乱用は地下水を、また干上がった湖岸から巻き上げられる塩分の多いほこりは大気を汚染し、周辺の地域に最悪の環境をつくっている。また、カザフスタンではセミパラチンスクに旧ソ連が核実験場を設置し、500回近い核実験を行ない、この草原も1991年に閉鎖され、今や荒野と化している。さらにカザフスタンのバイコスール宇宙開発基地は、現在もなおロシアが租借地として、管理その内部ではロシアがこの土地の行政権を握り、ロシアの通貨が流通し、いわば植民地状態のままである。

インドの工業化

植民地の遺産とも言うべき3大港湾都市を中心としたインドの工業中心地の比重は下がってきた。とくにデリーは、ヒンドゥー・イスラムの諸王国の首都であったが、19世紀にイギリス軍が占領し、1911年にイギリス領インドの首都がコルカタからデリーに移転してから、政治の中心として発達し、独立後は政府主導の工業化にあわせて周辺にあらたな工業地域が生まれた。

  • デリー…インドの首都で、インドは、ヒンドゥー教の信者が多く、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教。カースト制は、ヒンドゥー教の関係が深い厳しい身分制度。
ヒンドゥー教
バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教。カースト制は、ヒンドゥー教の関係が深い厳しい身分制度。

インドのインフラ

国内産業の発展によって、アーメダバードを含めた4大港湾から個別に内陸に入る植民地支配のシステムであった鉄道網が、デリーを含む内陸全体を結び合うシステムに代わり、その発達を上回って道路網が広がり、航空輸送も拡大した。交通網の整備は、各地方をIT産業

1980年代より、社会主義のような政治規制の強い工業化の限界を打破するために、経済の自由化が進められた。とくに、1990年代になると、外国資本によるインド国内での企業設立が自由化され、公営企業も市場原理にしたがい、海外からの技術や機械類の購入も自由になった。やがて、イギリス・アメリカ合衆国を中心とした外国資本が直接投資を進めた。植民地時代に、海外に移住したインド人の資本の回帰も大きかった。

旧社会主義国の市場を失ったが、それ以上にアメリカ合衆国への輸出が増大した。また、インドの科学技術教育は英語であったから、高度な技術者が大量にIT産業に流入した。IT産業は、通信設備が整備されれば、伝統的な港湾都市に立地する必要はなかった。もちろん、他の産業が集積している3大港湾都市やデリーに立地したIT産業も多いが、高温・多湿を避けて、内陸の乾燥した比較的気温の温和な「インドのシリコンバレー」と呼ばれるバンガロールや一部はハイデラバードに立地した。

IT産業は、国際的な立地上の利点として、時差の利用を可能とした。たとえば、アメリカ合衆国のロサンゼルスとの時差は11時間半であるから双方の土地に事業所をおけば、事実上、24時間操業が可能で、ソフトウェア開発の所要時間が半減し、技術者の渡航・滞在費も不要となり、しかも労賃が低いので、その人件費の節約はアメリカ合衆国企業のコスト削減に大きく貢献する。

インドの発展

インドの所得水準と道路や住宅事情にあわせたオートバイや自動車産業も、デリーやチェンナイに起こった。この急速な工業化はインドをBRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国・ 南アフリカ)と呼ばれる世界経済の有力な国としている。とりわけインドが重要視されているのは、その巨大な人口で、間もなく中国を抜くと推計されている。インドの生活水準は、平均すればなお決して高くはなく、また階層格差も大きいが、富裕層が1割いれば日本の総人口と同じになる。大都市にあった旧イギリス軍用地は、工場や高級住宅地に開発されている。

  • 人口急増地域(インドなど)…家族計画の普及, 国民所得向上による出生率の低下, 初等教育の普及(識字率の向上)などが対策。
  • 人口停滞地域(EU諸国)…高齢化社会。
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