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【高校日本史探求】平安時代のポイント

平安時代アイキャッチ画像 地理歴史・公民
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平安時代について学びます。光仁天皇のあとをついだ桓武天皇は、あらたな政治基盤を確立するため、寺院などの旧勢力の強い奈良から、水陸交通の便利な山城の地に都を移すことを考え、まず長岡京へ、ついで 794(延暦13) 年平安京へ遷都した。これから源頼朝が鎌倉に幕府をひらくまで、国政の中心が平安京にあった約400年間を平安時代とよぶ。桓武天皇は律令体制をたてなおすため、まず民生の安定につとめた。それでは、平安時代のポイントを見ていきます。

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平安時代のポイント

平安時代は、794年の平安京遷都から約400年続いた日本の歴史の中でも文化的・政治的に重要な時期です。この時代は、初期には天皇を中心とした律令政治が行われましたが、次第に藤原氏による摂関政治が主流となり、貴族が政治の中心を担うようになりました。地方では荘園が広がり、中央の支配が徐々に弱まる一方で、武士の台頭が始まります。文化面では、漢文学の影響を受けつつも、日本独自の仮名文字が発達し、『源氏物語』や『枕草子』といった国風文化が花開きました。また、天台宗や真言宗の隆盛により、仏教が社会や文化に深く根付いたのもこの時代の特徴です。平安時代は、日本の政治や文化が大きく変化し、日本らしさが形作られた重要な時期と言えます。

桓武天皇の時代

桓武天皇
平安京遷都(794)で、桓武天皇は、東北では蝦夷の激しい抵抗が続いており、東北を重視。その重要な役目が鎮守府であり、北上川を遡った位置に胆沢城(802)が築城されるとともに多賀城から移されました。そこで活躍するのが征夷大将軍の坂上田村麻呂

また、令制の改革も積極的で

  • 勘解由使…国司の不正を監視するために設けた。国司は交代の際に、後任者が前任者に仕事がきちんと行われていたという証明書を渡す。これを解由状という。中央にいて、解由状を審査することによって、不正を防ぐ。
  • 健児…それまでの軍団の制度が機能しなくなったため、郡司の子弟から採用。

さらに、政治と仏教の癒着による混乱を防ぐために、最澄の天台宗と空海の真言宗を保護して、仏教界の改革を刷新を図りました。

嵯峨天皇の時代

嵯峨天皇の時代は、平安時代初期にあたり、桓武天皇の政策を引き継いで律令政治の再建が進められました。特に、蔵人所(くろうどどころ)の設置により、天皇の機密を管理する体制が整備され、統治の効率化が図られました。また、文化面では漢文学や書道が重視され、嵯峨天皇自身も三筆の一人として高名でした。宗教においては、真言宗を開いた空海や天台宗を広めた最澄を保護し、仏教が隆盛を迎えた時代でもあります。

  • 薬子の変(810)…藤原冬嗣が蔵人頭に任命される。これが藤原北家が台頭する契機。
  • 検非違使の設置…京の治安維持

宇多天皇の時代

宇多天皇の時代は、藤原基経が摂政として初めて政治に深く関与し、藤原氏が権力を強化した時代です。一方で、宇多天皇は親政を目指し、菅原道真を登用して学問や漢詩文の振興に努めました。この時期の政治は安定しており、「寛平の治」として後世に評価されています。宇多天皇の施政には、学問重視の姿勢と、藤原氏の権力拡大への対応という二つの側面が見られます。

894年、菅原道真の進言により遣唐使廃止

醍醐天皇の時代

醍醐天皇の時代は、天皇自らが親政を行った「延喜の治」に象徴されます。この時代には、律令制の再整備が進められ、『延喜式』の編纂が行われました。また、文化面では『古今和歌集』の編纂が行われるなど、日本の古典文学が大きく発展しました。宗教面でも天台宗や真言宗が引き続き発展し、仏教が社会に広く浸透していきます。しかし、地方では徐々に不安定さが表れ、後の天慶の乱の兆しが見え始める時期でもありました。

  • 昌泰の変(901)…左大臣藤原時平は、菅原道真を大宰府へ左遷
  • 「古今和歌集」「延喜格式」「日本三代実録」の編纂も醍醐天皇の事業
  • 意見封事十二箇条(914)…三善清行の著。律令体制の崩壊と変質が顕著に。
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摂関政治

摂関政治とは、平安時代中期以降、天皇の幼少期には摂政が、成人後には関白が置かれた政治で、藤原兼家・道長の時代に全盛を迎えた政治体系です。11世紀後半に院政が始まって以降は形式化。入試で、摂関政治の形成までと摂関政治の全席期の違いが狙われます。
摂関政治のポイント
醍醐天皇のあと、藤原時平の弟にあたる忠平が、太政大臣として摂政や関白に任じられたが、村上天皇は忠平の死後摂関をおかず、政治をあらためようとした。しかしそれも一代かぎりで、その後は藤原北家のなかでも忠平の子孫だけが摂関に任じられ、969(安和2)年、安和の変によって左大臣源高明が地位を追われると、摂関はつねにおかれるようになった。この摂関の地位をめぐって、忠平の子孫同士の争いがつづいて、この争いに勝ちのこった藤原道長は、4人の娘をつぎつぎに天皇・皇太子の妃とし、朝廷で権勢をほしいままにした。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇はみな道長の外孫で、道長の子頼通も、この3天皇の時代、約50年間にわたり摂政・ 関白をつとめ、摂関家の勢力のもっとも安定した時代となった。

  • 安和の変(969)…藤原北家による他氏排斥が完了し、摂関常置の契機

藤原道長の時代

この摂関の地位をめぐって、藤原忠平の子孫同士の争いがつづいて、この争いに勝ちのこった藤原道長は、4人の娘をつぎつぎに天皇・皇太子の妃とし、朝廷で権勢をほしいままにした。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇はみな藤原道長の外孫で、藤原道長の子藤原頼通も、この3天皇の時代、約50年間にわたり摂政・ 関白をつとめ、摂関家の勢力のもっとも安定した時代となった。

  • 法成寺の建立

藤原頼通の時代

藤原頼通の時代は、父・藤原道長の後を継ぎ、藤原氏全盛期の象徴となりました。頼通は50年以上にわたり摂政や関白として権力を握り、外戚政策を通じて天皇の外祖父として実権を維持しました。この時代には平等院鳳凰堂が建立されるなど、貴族文化が最盛期を迎えましたが、同時に地方では武士の台頭が始まり、荘園制の拡大によって中央集権的な律令体制が次第に変容していく兆しも見られました。藤原頼通の時代は、政治的な安定とともに文化的な成熟を遂げた一方で、社会構造の変化が進みつつあった時期と言えます。

  • 平等院鳳凰堂の建立
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国風文化

国風文化
藤原氏がさかえた10世紀から11世紀の文化を国風文化とよんでいる。この時期は遣唐使の中止によって大陸文化を相対化するなか、日本的な思想や意識が表面にあらわれ、文化の国風化がすすんだ。また、貴族が地方政治からはなれ、その意識も宮廷生活を中心とする世界にかぎられるようになった 社会的背景も文化に強く反映している。

  • かな文字…漢字を変形させて、日本語の発音をあらわせるようにくふうした文字です。人々の感情を書き表せるようになりました。
  • 紀貫之…天皇の命で和歌集の古今和歌集を編集
  • 紫式部…源氏物語
  • 清少納言…枕草子
  • 大和絵…日本の自然や風俗をえがいた絵。「源氏物語絵巻」など。
  • 浄土信仰…念仏を唱えて、阿弥陀如来にすがり、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う思想。
  • 極楽浄土…阿弥陀如来がいる、あらゆる苦しみのない世界です。
  • 平等院鳳凰堂…京都の氏に藤原頼道が建立しました。阿弥陀如来の像やそれをおさめる阿弥陀堂がつくられました。

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