豊臣秀吉

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豊臣秀吉

織田信長の事業をひきついだのは家臣の豊臣秀吉である。織田信長が本能寺でたおれたとき、豊臣秀吉は備中の高松城で毛利氏の軍と対戦していたが、ただちに和をむすんで軍をかえし、京都の西の山崎の戦いで明智光秀の軍を破った。ついで翌1583(大正11)年には、織田信長の重臣であった柴田勝家を近江の賤ヶ岳の戦いで破り、織田信長の後継者の地位を確立した。豊臣秀吉はこの年、石山本願寺のあとに壮大な大坂城をきずきはじめた。ここは前面に摂津の海をひかえ、淀川によって畿内の各地につうじることができる陸海交通の要地であった。中世に活躍した堺の商人もここに移り、大坂は長く日本の経済の中心となった。豊臣秀吉は、1585年に関白となり、1586年に、太政大臣となる。この当時、直轄地を蔵入地といい、また、太閤検地、刀狩、身分統制令、人掃令と次々に施策を実行。

豊臣秀吉の外交

  • バテレン追放令(1587…九州平定の帰途、大村純忠が長崎を教会に寄進していたことなどに衝撃を受け、博多で発布された宣教師の追放令
  • 朝鮮侵略…2度の出兵(文禄の役・慶長の役)の本陣は肥前の名護屋。
  • 文禄の役…対馬の宗氏を介して、朝鮮に朝貢と明侵攻への先導を求め、朝鮮が拒否すると釜山付近に上陸。漢城(現ソウル)→平壌(ピョンヤン)→豆満江まで至ったが、李舜臣の水軍に苦しめられ、和平交渉のため一時撤兵。
  • 慶長の役…秀吉の死とともに撤兵
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