承久の乱は、鎌倉時代に後鳥羽上皇が起こした乱で、武家政権を確立し、西国まで幕府の支配が拡大する契機となりました。今日は、この承久の乱について詳しく見ていきましょう。
承久の乱の概要
簡単に、承久の乱の概要を確認しておきましょう。最低限、知っておきたい承久の乱の流れになります。
- 3代将軍源頼朝暗殺(1219年)
↓ - 後鳥羽上皇が皇族将軍の要請を拒否
↓ - 北条義時追討の宣旨(1221年)
↓ - 幕府方の勝利・朝廷側の敗北
↓ - 後鳥羽上皇隠岐に配流
↓ - 京都に六波羅探題設置
↓ - 西国の荘園に新補地頭を配置
以上が簡単な流れになります。特に、承久の乱後の社会の変化について聞かれるので、しっかりと整理していきましょう。
承久の乱が起こった原因
まずは、承久の乱が起こった原因を探っていきます。大きな理由は次の3点になります。
❶貴族たちの荘園に地頭が置かれるようになった!
❷将軍継嗣問題で後鳥羽上皇と北条義時が対立!
❸東国からの荘園の寄進がストップ!
院政の経済基盤は、各地にある寄進された荘園です。荘園整理令以降、長講堂領、八条女院領など膨大な荘園が寄進され、それらの年貢によって院政は成り立っていたのです。しかし、その荘園に鎌倉幕府から地頭が置かれるようになり、しだいに年貢を納めなくなってしますのです。
また、3代実朝の暗殺後、将軍の継嗣問題が鎌倉幕府の急務でした。幕府は後鳥羽上皇の皇子である雅成親王を皇族将軍に迎えたいと後鳥羽上皇に申し出ますが、後鳥羽上皇はこれを拒否。このため義時は皇族将軍を諦め、摂関家から将軍を迎え九条頼経を将軍として迎えます。
院政が荘園の年貢によって成り立っていることはお伝えしましたが、鎌倉幕府の成立で東国からの荘園の寄進が止まってしまいます。
こうした背景を元に、義時追討の機運が朝廷内で高まりました。
承久の乱の勃発
1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」に集まった諸国の武士たちに、北條義時追討の宣旨を出します。これにより承久の乱が勃発。幕府方は動揺しますが、北条政子が御家人たちに対して鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴えの呼びかけ、即座に対応します。
北条泰時、時房らを主力とする幕府軍が京都に押し寄せ、後鳥羽上皇自らも武装して戦いますが敗れます。
承久の乱後の変化
承久の乱後の社会の変化に関しては詳しく聞かれますので、しっかいと確認していきましょう。
❶後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐に配流
❷上皇の持っていた荘園はすべて没収
❸京都に六波羅探題が置かれる
❹新補地頭が配置
承久の乱の首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島に配流、順徳上皇は佐渡島に配流、土御門上皇は土佐へ配流されています。天皇であった仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位します。後鳥羽上皇が所持していた膨大な荘園は没収され、幕府の支配下に置かれるようになります。
また、京都に六波羅探題が設置され、北条泰時、時房らにより朝廷の監視や西国武士の統率を行うようになります。
上皇方についた武士の領地はすべて没収され、これまで幕府側が手を出せなかった西国の荘園にも新たに地頭を配することができるようになります。新しく配された地頭を新補地頭とよびます。
承久の乱の問題演習
後鳥羽上皇は( ① )の武士をおいて朝廷の勢力の挽回を狙った。三代将軍の( ② )が暗殺されると朝幕関係は悪化し、上皇は( ③ )追討の院宣を発して争乱が始まった。
乱は幕府方の勝利に終わり、三上皇は流罪となり、朝廷の監視などのために( ④ )が、また上皇方の所領には( ⑤ )地頭が設置された。乱後は、( ⑥ )が正式に将軍となった。
解答①西面 ②源実朝 ③北条義時 ④六波羅探題 ⑤新補地 ⑥九条頼経
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