【高校倫理】平安仏教(最澄と空海の教え)

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【高校倫理18】平安仏教(最澄と空海の教え)について記述しています。

  • レベル:標準
  • 対応:定期テスト・実力テスト・入試
  • 重要度:よく出る

平安仏教

平安仏教は、現在につながる宗派の始まりであり、最澄と空海に代表される現世利益を求める「貴族仏教」、山岳信仰と結びついた「山岳仏教」の性格がある。

この時代には、「本地垂迹説(神は仏の仮の姿)」のような日本独特の「神仏習合」思想が興ってきた。役小角(えんのおづ)がその開祖とされる修験道 (修験者、山伏)は、奈良時代に成立し,深山幽谷で厳しい修行をする思想で,「密教」と深く結びついていた。

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平安時代

藤原氏の活躍がポイントです。その平安時代は、桓武天皇が、784年に長岡京(京都府)、794年に平安京に遷都して、以後、12世紀末までの約400年間が平安時代です。

藤原氏は、外戚として、天皇が幼いときに摂政、成人したのちに関白となり、朝廷での実験をにぎって政治を行いました。これを摂関政治といい、866年、藤原良房が清和天皇の摂政に就任し、887年には藤原基経が宇多天皇の関白となり、これが摂関政治の始まりです。

最澄

19歳の最澄(現在の滋賀県大津市生まれ)は、東大寺で具足戒(僧侶が守る戒律)を受けたが、わずか3カ月後には比叡山(霊山として信仰)に入り、一乗止観院(のちの延暦寺根本中堂)という草庵で悲願 (『願文』)を決意し、12年間修業(止観、深い瞑想)した。

偶然の幸運(和気広世…和気清麻呂の長男)から平安京遷都(794)する桓武天皇の龍僧となり、804年中国の天台宗を直接学ぶために遣唐使の一員として入唐する。 異例の通訳付き短期「還学僧」として天台山で8カ月学び、天台秘蔵の典籍230部460巻を持ち帰る。

最澄の教え

悟れるものとできないものを区別する奈良仏教に不満な最澄の「仏性論」は、南都六宗を代表する法相宗の徳ー(とくいつ 福島県会津の僧)との論争(三一権実論争,さんいちごんじつろんそう)で明確となる。

最澄は理想主義で、「一切衆生悉有仏性」の人間平等主義を説く。一方の徳一は、現実主義で人間性の違いを説いた。結局、最澄の仏性論は、どんな人でも何度も生まれ変わり、いつかは悟ることができるというものであった。さらに、人間ばかりか山や川までもが悟ることができるとい「山川草木悉有仏性」という日本仏教の伝統ともいうべき「天台本覚論」が生まれた。

空海

19歳の空海(現在の香川県善通寺市生まれ)も大学寮での「明経道(みょうぎょうどう,儒学, 官僚の道)」を捨て、山林修行に入り、24歳で反対する親族への出家宣言である『三経指帰』を書いた。最澄と同じ804年の遣唐使の一員で、20年の「留学僧」として入唐する(30歳)が2年間で帰国する。

空海の教え

空海の仏性論である「即身成仏論」は、さらに発展・変形させて、人間や山川だけでなくこの世のあらゆるものに「仏性(=大日如来)」が宿っていて、何度も生まれ変わる遠い将来ではなく、煩悩を持った現在のまま悟りに至れるという真言密教(「真言宗(しんごんしゅう)」は日本独自)を説いた。

最澄と空海

平安時代の804年以降に、新しい仏教を唐から最澄と空海が伝えます。

  • 最澄…比叡山に延暦寺を建て、天台宗を広めます。
  • 空海…高野山に金剛峯寺建て、真言宗を広めます。
比較 最澄 空海
宗教 天台宗 真言宗
比叡山 高野山
延暦寺 金剛峯寺
場所 滋賀・京都 和歌山県
生まれ 滋賀 香川
教え 誰でも仏になれない 誰でも仏になれる

2人とも、桓武天皇のときの遣唐使に従って、唐(中国)に渡り、新しい考えの仏教を学んで帰りました。

さらに深く(応用)

大乗菩薩戒壇

比叡山に「大乗菩薩戒壇」を設立することは、最澄死後7日目に勅許がおり、最澄の悲願は実現した。最澄の説く「大乗菩薩戒(一向大乗戒)」とは大乗仏教の戒律であり、戒律の内面化・単純化というキリスト教におけるイエスの律法の内面化のような役割を果たした。

最澄の教育論

「山家学生式』にある「一隅を照らさば、これ即ち国宝なり」(社会の一隅を照らすならば、この人こそどんな宝にもまさる国の宝である)であり、戒律は簡素にしたが修行(天台教学の勉強、止観の実護 座 )は厳しくやり,国の宝にしようというものである。

あわせて確認

以上が、【高校倫理】平安仏教(最澄と空海の教え)となります。

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