【高校倫理】日本の仏教史ポイント

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奈良仏教

奈良時代は、「南部六宗」といわれる奈良仏教と「律令神道」ともいうべき政治思想が共存している。

奈良時代の仏教は,中国(唐)から輸入した学問理解中心の仏教であり、「鎮護国家」といわれる国家仏教であった。当然、日本の民衆にはまだ浸透していない。今でも奈良の薬師寺の僧侶が亡くなったら、浄土真宗の僧侶を呼んで葬儀を行うといわれている。奈良仏教を代表す

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南都六宗

平城京を中心に栄えた六つの宗派の総称であり、法相宗(唯識思想, 興福寺・薬師寺、唐の玄葉に直接学んだ道昭が開祖)が最も栄えた。

  • 華厳宗…(密教で大日如来)」は東大寺の宗派
  • 律宗…(唐招提寺 鑑真が開祖)」は、戒律の研空と実践を重視する宗派

「三論宗」「倶舎宗」「成実宗」も含めて、東大寺中心に教義を学び合う学派であった。

飛鳥時代

飛鳥時代(7世紀)の聖徳太子(574 ~ 622)と奈良時代(8世紀)の藤原不比等(659 ~ 720)を比較させて、律令国家の政治思想である「律令神道」「中臣神道」「祓い神道の思想」がポイント。

ともに、律令国家には「本格的都城」と「歴史・政治思想書」と「憲法・律令」が必要と考えていた。しかし、聖徳太子は仏教と和(憲法)による日本的な中央集権国家を目指したが、藤原不比等は神道と律(律令)による日本的な中央集権国家(法治国家)を完成させた。
参考【高校倫理】聖徳太子の思想

律令神道

律令の精神を徹底するための政治的国家神道である。701(大宝1)年に「大宝律令」が発布されたとき、藤原不比等は大納言に昇進して「太政官」であり、「神祇官」は中臣意美麻呂(なかとみのお みまろ)である。

唐令にはない太上天皇(上皇)の制度があり、大宝律令(701)のときは文武天皇、養老律令(718)」の時は元明上皇であった。不比等は、仏教でなく、国家神道こそが、律令国家には必要と考えたのである。律の精神を日本中に浸透させる神祇官が執り行う年二回の儀式が、六月晦(みなづきつごもり)と十二月晦(しはすつごもり)の大祓祝詞(おおはらえののりと)であった。

平安仏教

平安仏教は、現在につながる宗派の始まりであり、最澄空海に代表される現世利益を求める「貴族仏教」、山岳信仰と結びついた「山岳仏教」の性格がある。

本地垂迹説

この時代には、本地垂迹説(神は仏の仮の姿)のような日本独特の神仏習合思想が興ってきた。役小角(えんのおづ)がその開祖とされる修験道 (修験者・山伏)は、奈良時代に成立し、深山幽谷で厳しい修行をする思想で、「密教」と深く結びついていた。

鎌倉仏教

鎌倉仏教は、比叡山に集まった修行僧たちの中から、新しい時代に適した仏教の姿を探求する動きから生まれました。末法思想とは、釈迦入滅後、「正法」、「像法」の二千年を経過したつぎの一万年の「末法」の時代には、教えだけが残り。修行しても悟りを得ることはできないという歴史観(思想)である。日本では、平安時代末期(1052年)から末法に入ったと考えられ、この年、藤原頼道(関白)は宇治平等院に阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。

平安時代末期

平安時代の末から、保元の乱・平治の乱・源平の乱など戦乱があいつぎ、それに加えて、ききん(作物が実らず、飢えに苦しむこと)や災害なでも起こり末法思想が広がりました。社会不安は、増大し、人々は、心のよりどころを求めるようになったことが背景。

比較 浄土宗 浄土真宗 時宗 日蓮宗 臨済宗 曹洞宗
開祖 法然 親鸞 一遍 日蓮 栄西 道元
寺院 知恩院 本願寺 清浄光寺 久遠寺
教え ひらすら念仏 念仏 踊念仏 題目を唱える 座禅 座禅
対象 貴族・武士・庶民 庶民・地方 庶民・地方 関東の武士 公家 北陸の武士

新しく誕生した宗教宗派は、武士や庶民の要求にこたえてわかりやすく、信仰しやすい教えだったため、旧仏教(天台宗や真言宗など)の圧迫の中で、人々の間に広がっていきました。

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