死に関しては昔から多くの人々が定義を求めようとしてきました。何しろ自分自信が死んだことはないのですから、他人の死をじっくりと考察することで共通点を求めてきました。
死とは何か
死んだ人には3つの共通点が存在します。それは以下の3つです。
- 呼吸が停止している
- 心臓が停止している
- 瞳孔反射が見られない
身近で亡くなった直後の人を観察したことがある方はそんなにいないかとは思いますが、死んですぐの人にはまだ体温があります。死後硬直などもまだ始まっていません。しかし、上記の3つの条件は揃っています。この3つを満たした状態に陥れば、息を吹き返すことはまずないと言っていいでしょう。そこで、この3つの条件がそろったとき、人が死んだとしてきたのです。
これは、「死とは何か」について定義したのではなく、「どうゆう状態が死んだ状態なのか」を明らかにしただけです。しかも、それを決めたのは人間です。死は神が決めた運命ではなく、人間が決めた境界線を越えた者が死んだということになったのです。人々はこの死の状態を境界線とし、治療の最終点を設定し、懸命の努力を行い、境界線を越えれば葬式を行い、相続を開始してきたのです。
ところが、現代は医療技術の発展により、この境界線が不明瞭になりつつあります。いわゆる「脳死」の問題です。脳死状態とは、脳の活動は止まっているにも関わらず、人工心肺装置などによって、呼吸と心臓の拍動が一定に保たれている状態です。生命活動の源である脳は死んではたらかない状態ですので、二度とその人は起き上がることはありません。
これは従来の死の定義からすると、3つの状態が現れていないので死の定義に矛盾が生じている状態になります。しかし、死の定義は人間がつくりだしたものです。その境界線を自由に設定できるのですから、新しい境界線を設定すれば、なんら矛盾は生じないのです。
脳死と死の定義
しかし、「脳死=死」と簡単に定義を変更することはできないのです。というのも、呼吸の停止、心臓の停止、瞳孔反射の停止というこれまでの死の境界線は、何千年もの間に私たちに定着してきたからです。
脳死というのは、重い病気を患い長期間寝たきりになってしまう場合だけではなく、交通事故で脳挫傷になった方や、脳溢血によって突然発症するケースも多々見られます。昨日まであんなに元気に活動していた身近な人間が、突然脳死状態に陥ってしまうのです。大切な家族がいきなり脳死状態になって、呼吸も心臓も動いているのに死を宣告されたら、簡単にはいそうですかとはいかないでしょう。
どれほど科学的に医学的に脳死だと言われても簡単に納得できるものではありません。死も個人の尊厳と深くかかわるものであると考えると、科学的医学的結論ですべてを決めるのは問題です。
死は生の一部分であり、最後を締めくくる瞬間であり、個人の尊厳を色濃く反映される瞬間です。一人一人の人間の個人的な感情や価値観に大きく関わり、決して論理的に結論が出てくるものではないことを理解しておきましょう。医療の現場でも、臓器移植がなどがかかわる場合を除いては、「脳死=死」としてはいけないのが実情なのです。
死の種類
倫理的、法的、医学的な観点から、非常に複雑であり、国や文化によって異なることに注意!
脳死…脳死は、脳の全機能が停止し、不可逆的な状態であることを指します。脳死状態では、脳幹も含めて脳の活動が完全に停止しており、生命維持装置などの医療措置がなければ、生命を維持することはできません。脳死宣告が行われると、通常は患者は法的に死亡とみなされます。
心臓死…心臓死は、心臓が停止し、心臓の機能が完全に停止した状態を指します。心臓死の場合、脳の活動は完全に停止しているわけではないため、脳死とは異なります。しかし、心臓死の場合も通常は生命維持装置などの医療措置がなければ、生命を維持することはできません。心臓死の定義や宣告の基準は、国や地域によって異なる場合があります。
安楽死…安楽死は、病気や苦痛からの解放を目的として、医師が意図的に患者の死を促進することを指します。これは患者の希望や同意のもとに行われる場合もありますが、それによって倫理的な議論や法的な問題が生じることがあります。安楽死が合法かどうか、条件や制限があるかどうかは国や地域によって異なります。
尊厳死…尊厳死は、患者が自らの死に関する選択や意志を尊重されることを指します。これは通常、医療の最終段階において、痛みや苦痛の軽減、終末期ケア、患者の選択に基づいた治療やケアの提供などを含みます。尊厳死は、患者や家族が死に向かう過程を人間らしく、尊厳あるものとして経験することを目指します。
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