【高校日本史】邪馬台国の出現

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稲作による生産経済の発展により貧富の差が生じます。日本は小国が乱立し、やがて邪馬台国が成立していく過程を見ていきましょう。

小国の分立から邪馬台国の出現

弥生時代には稲作が開始され、生産経済が始まったことで奪い合い、戦争が頻発するようになります。人々は生き残るために集落が集まり小国が誕生します。

やがて、小国の連合体が登場するのですが、それが今回のメインテーマである邪馬台国です。まだ、日本に文字がない時代ですので、中国の3つの歴史書を紐解くことで当時の日本の状況が見えてきます。

邪馬台国は3つの歴史書で理解!『漢書』地理志…小国の分立!
『後漢書』東夷伝…倭国大乱!
「魏志」倭人伝…邪馬台国の卑弥呼登場!

『漢書』地理志

紀元前後、当時の中国の王朝は漢です。この時期の日本を知る手掛かりとなるのが『漢書』地理志です。まとめられた時代は少し後になるのですが、後漢の班固(はんこ)によってまとめられています。

『漢書』地理志
夫れ楽浪海中に倭人あり、分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云う。

楽浪郡の南の海の中に倭人という人々がいて、約百国あまりの小国が形成されている。定期的に朝貢してくる。」

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紀元前後は小国の乱立

漢(前漢)武帝の時代に朝鮮半島の北西部に置かれていたのが楽浪郡です。現在は北朝鮮の首都である平壌(ピョンヤン)になります。その南の海の中に日本があり、倭人が住んでいたと書いてあります。

また、その当時の日本は小さな国が100か国余り乱立していて、定期的に土産物をもって朝貢してくることが書かれています。紀元前後の日本にはまだ邪馬台国のような小国連合は存在していないことがわかりますね。

『後漢書』東夷伝

紀元後1~2世紀になると、中国は後漢という王朝が光武帝によって建てられます。この時代の日本について書かれているのが『後漢書』東夷伝です。編者は范曄(はんよう)で、宋の時代に完成しました。

『後漢書』東夷伝 ~1世紀の日本~
建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

紀元57年、倭の奴国が朝貢した。その使者は自分の身分を大夫と称した。倭国は南の果ての海の中にある。光武帝はこの朝貢に対してひも付きの印を与えた。」

『後漢書』東夷伝 ~2世紀前半の日本~
安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。

紀元107年、倭の国王帥升らが、奴隷160人を貢ぎ物として朝貢してきた。」

『後漢書』東夷伝 ~2世紀後半の日本~
桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐し、暦年主無し。

桓帝・霊帝の頃、倭国は大きく乱れ、互いに攻撃をくり返し、長い間これを統治する者がいなかった。」

金印「漢委奴国王」

建武中元二年とは、西暦57年のことで、現在の福岡県にあった小さな小国の奴国が朝貢しにやってきたという記述があります。この使者に対して光武帝が与えたのが金印です。江戸時代に福岡県の志賀島で発見されています。

金印 漢委奴国王

漢委奴国王と印文にあります。「倭」ではなく「委」である点に注意しましょう。

倭国大乱

桓帝・霊帝の間とは、2世紀後半の後漢の皇帝の時代です。後漢自体も崩れていく時代ですが、倭国も同じように大戦争の時代に突入しています。倭国大乱の時代だといわれます。この後、邪馬台国の卑弥呼が登場するまで荒れた時代になるのです。

「魏志」倭人伝

中国の後漢220年に倒れた後は、魏・蜀・呉三国時代に突入します。朝鮮半島に一番近い国が魏でしたので、魏に朝貢していた記述があります。「魏志」倭人伝の編者は陳寿で晋の時代に完成しました。

「魏志」倭人伝 ~小国家の連合~
倭人は帯方の東南大海の中に在り。山島に依り国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国をへて、乍は南し乍は東しその北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて一海を度る千余里、対馬国に至る。…南、邪馬台国に至る。女王の都とする所なり。…

「倭人は帯方郡の東南の海の中の山ばかりの島に住み、小国を形成している。もともと100国余りがあり漢の時代に朝貢していた。現在は、魏と通行関係にあるのは30か国である。」
「帯方郡から倭へ行くには、海岸に沿って船で進み、韓国を経て、南へ東へと進み、狗邪韓国に着く。ここまで7000余里である。そして、始めて海を渡り、1000余里行くと対馬国に着く。…南へ進むと、邪馬台国に着く。ここが女王卑弥呼の都のある国である。」

「魏志」倭人伝 ~習俗~
男子は大小無く、皆黥面文身す。…尊卑差有り。…その風俗は淫ならず。男子は、皆露紒し、木緜(ゆう)を以って頭に招け。其の衣は横幅、ただ結束して相連ね、略々縫うこと無し。婦人は被髪屈紒す。衣を作ること単被の如く、其の中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。…その俗、挙事行来、云為する所有れば、すなわち骨を灼きて卜し、もって吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀法の如し。火坼を視て兆しを占う。

男子は大人や子供の区別無く、みんな顔と体に入れ墨している。…身分の尊卑によっても違いがある。…その風俗はみだらではない。男子は皆、結った髪を露出し、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅があり、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い、折り曲げて結っている。上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。…その風俗は、何か判断に迷うことがあると、すぐに骨を火で焼いて占いをし、吉凶を判断する。先に占う内容を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。

「魏志」倭人伝 ~税制・統治~
租賦を収むるに邸閣あり。国々に市有り、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。…女王国より以北には、特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。…下戸大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲り、あるいは跪き、両手地に拠りこれが恭敬を為す。

租税を収めるための高床の大倉庫がある。国々には市場があって欲しいものを手に入れることができる。大倭と呼ばれる役人にこれを監督させている。…女王国より北側の同盟国には、特に一大率という役人が派遣され、その国を監視している。諸国はこれを非常に恐れている。常に伊都国で政務を執っている。…下戸と呼ばれる一般の人々が、支配者階級の大人と道路で出逢ったときは、後ずさりして道路脇の草に入って道を空け、言葉をかける場合は、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、敬う姿勢を取らなければならない。

「魏志」倭人伝 ~女王卑弥呼~
其の国、本亦男子を以って王と為し、住まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐して年を経たり。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく、男弟ありて、佐けて国を治む。…景初二年六月、倭の女王は大夫難升米等を遣はし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守、劉夏は吏を遣わし、将い送りて京都に詣る。その年十二月、詔書が倭女王に報いて曰く。…今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し仮授せしむ。

邪馬台国連合の盟主は、かつては男子を王としていたが、七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、女性の盟主を共に立てて王とした。名前は卑弥呼という。呪術に優れ、人々をよく統率した。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。…西暦239年6月、倭の女王は、大夫の難升米を帯方郡に派遣してきた。使者は魏の皇帝にお目通りして献上品をささげたいと求めた。太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米を引率して送らせ、都に洛陽に着いた。その年の12月、詔書が倭の女王に報いて、こう言った。…今、汝に親魏倭王の称号を与え、金印に紫のヒモをつけ、帯方郡の太守を通してこれを与えた。

「魏志」倭人伝 ~壱与の擁立~
卑弥呼死するを以って大いに冢を作る。径百余歩、徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女、壹与(臺与)、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。

卑弥呼は死ぬと大きな墓が作られた。直径は百余歩もあり、徇葬された奴隷は百人あまりであった。その後、男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。そこで、卑弥呼の一族の中から十三歳の壱与(いよ)を王として選んだ。すると、また連合が回復した。

邪馬台国の場所

「魏志」倭人伝には、当時の倭国が30か国ほどの連合体になっていると書かれています。また、邪馬台国への道順も詳細に記載されています。

後漢の時代に朝鮮半島の現在のソウル(漢城)付近に設置された植民地である帯方郡からの道順になります。せっかくなので、当時の朝鮮半島の情勢も地図で確認しておきましょう。

邪馬台国 朝鮮半島

帯方郡狗邪韓国(朝鮮半島南部)→対馬国(対馬)→一支国(壱岐)→末盧国(佐賀唐津)→伊都国(福岡糸島)→奴国(福岡市)→不弥国(?)→投馬国(?)→邪馬台国(九州?近畿?)

道順は詳しく書かれていますが、「魏志」倭人伝に記載されている方角か距離のどちらかが間違っているため、邪馬台国の本当の場所はまだわかっていません。九州説と近畿説で意見が割れているようです。

邪馬台国の習俗

当時の邪馬台国の習俗についても詳しく書いてあります。男子は全身に入れ墨をしていたり、貧富の差や地域によってそのデザインが違っていたようです。当時の衣類についても記載があります。女性は一枚の布に穴をあけて被った形の貫頭衣を着ていたようです。

また、鹿の肩甲骨など、動物の骨に筋を入れておいて、これを火で焼いて、そのひびの状態から吉凶を占う太占の法が行われていたことも書かれています。

邪馬台国の税制・統治・身分

刑罰税制についての記載もあります。どの程度の罪を犯せば、どんな刑になるのか。現在よりもかなり重い刑罰制度だったようです。税制もあり、それを納める施設である高床の倉庫があったり、国々に市場があったりします。市場は大倭(だいわ)と呼ばれる監督官によって管理されていました。

地方の統制には、監視のために一大率(いちだいそつ)という役人が派遣されていました。諸国はこの一大率を非常に恐れていたとの記述もあります。

身分の違いもはっきりしていたようです。下戸(げこ)と大人(だいじん)という厳しい身分の差がありました。下戸は一般の人々、大人は支配者階級になります。

邪馬台国の女王「卑弥呼」

邪馬台国は女王である卑弥呼が統率していました。卑弥呼は鬼道(呪術)に優れており、人々を統率することに優れ、よく連合国を統制したとの記述があります。また、夫はいないが、弟がいて卑弥呼の政治を補佐していたようです。

景初三年(西暦239年)に卑弥呼が難升米(なしめ)を帯方郡に派遣したことも書かれています。「魏志」倭人伝には景初二年と書かれていますが、正しくは景初三年だとわかっています。このとき魏の皇帝から卑弥呼は親魏倭王の称号と金印を与えられています。

卑弥呼の後継者「壱与」

卑弥呼の死についても記述があります。大きな古墳がつくられ生きたまま奴婢100人余りが殉葬されています。

その後、男子の王が立てられましたが、戦争状態が続きなかなか連合国が治まらなかったので、卑弥呼の一族の中から、当時13歳だった壱与(いよ)が女王として立てられます。すると連合国が治まったようです。壱与は台与(とよ)と呼ばれる場合がありますので、両方覚えておきましょう。

謎の4世紀

「魏志」倭人伝には3世紀前半までの記載が登場しますが、この後は266年に中国の次の王朝である晋に壱与が使いを送ってきたという記述がありますが、それ以後は空白となっています。中国が五胡十六国と呼ばれる時代に突入したためです。

倭国は中国の歴史書から姿を消し、4世紀に何が起こったのか不明点が多く残されています。そしてこの時期に登場するのがヤマト政権です。

邪馬台国の出現 確認問題

次の(  )に適する語を入れよ。

(1)紀元前後に日本列島には多数の小国があったことがわかっている。班固らが著した( ① )には、紀元前1世紀ごろ倭人は( ② )余国に分かれていたとある。

(2)范曄(はんよう)が著した( ① )には、1世紀の倭の( ② )国が遣使して後漢の( ③ )より金印を受けたこと、2世紀初めに倭国王帥升らが、奴隷である( ④ )を献上し、2世紀後半には倭国内で大乱があったとされている。

(3)倭国大乱があったことは、瀬戸内海沿岸にある見張り台や砦の役割をしたと考えられる( ① )の存在で証明される。また、青銅器のうち九州北部には( ② )、瀬戸内中部には( ③ )、近畿には( ④ )が主に分布し、それぞれを祭器とする小国の連合体があったと推定されている。

(4)陳寿が晋の時代に完成させた( ① )には、邪馬台国の記述がある。邪馬台国には地方の統制のために( ② )という役人が諸国を監視していたこと、「大人と( ③ )」という身分の区別があったことが書かれている。

(5)邪馬台国の女王( ① )は、「( ② )」の称号を得たが、その死後に倭国で内乱があり、彼女の一族の女性( ③ )が王となると乱が治まったとされる。

邪馬台国の出現 確認問題 解答

次の(  )に適する語を入れよ。

(1)紀元前後に日本列島には多数の小国があったことがわかっている。班固らが著した(①『漢書』地理志)には、紀元前1世紀ごろ倭人は(②100)余国に分かれていたとある。

(2)范曄(はんよう)が著した(①『後漢書』東夷伝)には、1世紀の倭の(②)国が遣使して後漢の(③光武帝)より金印を受けたこと、2世紀初めに倭国王帥升らが、奴隷である(④生口)を献上し、2世紀後半には倭国内で大乱があったとされている。

(3)倭国大乱があったことは、瀬戸内海沿岸にある見張り台や砦の役割をしたと考えられる(①高地性集落)の存在で証明される。また、青銅器のうち九州北部には(②銅矛・銅戈)、瀬戸内中部には(③平形銅剣)、近畿には(④銅鐸)が主に分布し、それぞれを祭器とする小国の連合体があったと推定されている。

(4)陳寿が晋の時代に完成させた(①「魏志」倭人伝)には、邪馬台国の記述がある。邪馬台国には地方の統制のために(②一大率)という役人が諸国を監視していたこと、「大人と(③下戸)」という身分の区別があったことが書かれている。

(5)邪馬台国の女王(①卑弥呼)は、「(②親魏倭王)」の称号を得たが、その死後に倭国で内乱があり、彼女の一族の女性(③壱与)が王となると乱が治まったとされる。

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