▶ YouTubeで授業動画配信中

【高校日本史】ヤマト政権の成立と古墳時代

スポンサーリンク

古代の日本の状況は、中国の正史から推測してきましたが、卑弥呼の死、壱与が女王になって以降は空白の4世紀になります。このころから大型の古墳が各地でつくられる古墳時代に突入します。ヤマト政権の出現とともにお伝えします。

スポンサーリンク

ヤマト政権の出現と古墳

3世紀後半から4世紀にかけて、前方後円墳が登場します。ここから時代区分が弥生時代から古墳時代へと移ります。同時に出現するのがヤマト政権です。前方後円墳の分布範囲の中心が、今の奈良県である大和(ヤマト)で、ちょうどヤマト政権の成立ととらえられています。

ここから、飛鳥に宮都が置かれるまでの時期が古墳時代になります。この古墳時代とヤマト政権の成立は、次の2つテーマに分けて学習を進めると理解が進みます。

古墳時代・ヤマト政権のポイント!❶前方後円墳から八角墳までの古墳の移り変わり!
❷ヤマト政権の確立を教える4つの史料
スポンサーリンク

前方後円墳の出現で古墳時代へ

弥生時代には、地域ごとに特徴がある墳丘墓がつくられてきました。しかし、3世紀後半から4世紀にかけて前方後円墳がヤマトから西日本各地に広がりを見せ始めます。4世紀中頃になると、東北中部まで前方後円墳が広がりを見せます。

この前方後円墳の広がりは、ヤマトにいる大王(だいおう・おおきみ)に習って、各地の豪族も前方後円墳をつくり出していることが推測できます。つまり、方の豪族を統率する広域の政治連合体であるヤマト政権が成立していたに違いないと考えられるようになりました。

纏向遺跡と箸墓古墳

奈良県桜井市に纏向(まきむく)遺跡があります。弥生文化の終末期の遺跡で、王宮を思わせるような大型の建物群の跡や、全国各地域からの大量の土器などが発見されています。今でいう大都市のような性格をもった遺跡になります。

この纏向遺跡内に古墳時代の出現期である3世紀後半の大型の古墳があります。それが箸墓(はしはか)古墳です。出現期の古墳で、早ければ卑弥呼や壱与の時代と被るので、邪馬台国は近畿にあったのではないかという近畿説の有力な証拠にもなっています。

スポンサーリンク

古墳の時代区分と移り変わり

古墳時代は、古墳のようすから次の5区分に分けられます。

  • 出現期…3世紀後半、箸墓古墳などの前方後円墳の出現
  • 前期…4世紀、西日本は前方後円墳、東日本は前方後方墳が多い
  • 中期…5世紀、大山陵古墳などの巨大な前方後円墳
  • 後期…6世紀、横穴式石室が一般化、群集墳の増加
  • 終末期…7世紀、近畿の大王の八角墳

全国の古墳

出現期~前期の古墳

前方後円墳などの古墳が出現し始めるのが3世紀後半あたりからになります。これから4世紀の中期までの古墳の特徴は次の通りです。

分布畿内中心に丘陵地大型古墳
形状西日本:主に前方後円墳 東日本:主に前方後方墳
古墳例箸墓古墳(奈良)、黒塚古墳(奈良)、椿井大塚山古墳(京都)
埋葬方法主に竪穴式石室、木棺・石棺・粘土槨も多い
埴輪円筒埴輪、斜面に葺石(ふきいし)
被葬者司祭者的性格が強い
副葬品銅鏡などの呪術的色彩が強い、三角縁神獣鏡など

出現期、前期の古墳といえば、前で紹介した纏向遺跡内箸墓古墳です。また、三角縁神獣鏡がまとまって出土した奈良県の黒塚古墳、京都の椿井大塚山古墳も押さえておきましょう。

三角縁神獣鏡

中期の古墳

5世紀が中期の古墳になります。大山陵古墳などの巨大な古墳が平野部に造営されます。以下に中期古墳の特徴をまとめています。

分布畿内から全国に波及、平野部巨大古墳造営
形状巨大な前方後円墳が全盛
古墳例大山陵古墳(大阪)、誉田御廟山古墳(大阪)、造山古墳(岡山)
埋葬方法主に竪穴式石室
埴輪葺石、円筒埴輪に加え形象埴輪が増加
被葬者武人的性格が強い、倭の五王など
副葬品馬具・武具などの軍事的色彩が強い

大阪府堺市百舌鳥(もず)古墳群の中でも最大の古墳が大山陵古墳(仁徳天皇陵古墳)大阪府羽曳野市古市古墳群の中でも最大の古墳が誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵古墳)になります。大山陵古墳は世界最大の古墳になりますね。

この他にも覚えておきたい中期の古墳として、岡山県の造山(つくりやま)古墳があります。全国4位の大きさです。福岡県の岩戸山古墳筑紫国造岩井の墓だとされています。石人・石馬で有名ですね。

石人・石馬

鉄剣・鉄刀の金石文で有名な埼玉県の稲荷山古墳、熊本県の江田船山古墳も押さえておきましょう。

後期の古墳

6世紀になると後期の古墳が登場します。このころ渡来人が日本に頻繁にやってくるようになり、古墳にも大陸文化の影響がみられるようになります。

分布近畿地方以外は大型古墳が減少
形状群集墳など小型の古墳が増加、装飾古墳が増加
古墳例新沢千塚古墳群(奈良)、岩橋千塚古墳群(和歌山)、吉見百穴(埼玉)
埋葬方法追葬が可能な横穴式石室の増加
埴輪形象埴輪、九州北部では石人・石馬
被葬者支配者層だけでなく有力農民が古墳を造営
副葬品葬送儀礼に伴う多量の土器が中心

群集墳として、奈良県の新沢(にいざわ)千塚古墳群、和歌山県の岩橋(いわせ)千塚古墳群、埼玉県の吉見百穴(よしみひゃくあな)を押さえておきましょう。

装飾古墳とは、石室内部に線刻(せんこく)彩色の壁画が描かれた古墳です。福岡県の竹原古墳石室壁画などが有名です。

蘇我馬子の墓とされる奈良県の石舞台古墳は、横穴式石室の円墳で後期の古墳とされています。

竪穴式石室と横穴式石室

終末期の古墳

7世紀が終末期になります。飛鳥時代と被る時期です。終末期の古墳の最大の特徴は、大王の墓として八角墳が登場したことです。大王の権力が確立したことがうかがい知れます。

八角墳

地方の有力豪族は前方後円墳を造営しなくなります。そのかわり大型の方墳や円墳を造営します。方墳では千葉県の龍角寺岩屋古墳円墳では栃木県の壬生(みぶ)車塚古墳を覚えておきましょう。

スポンサーリンク

ヤマト政権がわかる4つの史料

4世紀は中国の正史が無く空白の時代となります。4世紀後半から5世紀にかけて、朝鮮半島や中国の情勢も変わり、当時の倭の状況を示す4つの史料が登場します。

5世紀の中国・朝鮮半島の情勢

まずは、このころの中国と朝鮮半島の状況を確認しておきましょう。下の地図を見てください。

4世紀の中国・朝鮮半島

4席期後半から5世紀になると、中国は南北朝時代になります。北に北魏の北朝、南に宋(南宋)の南朝です。

朝鮮半島も国の中がすべて変わっています。楽浪郡は高句麗によって滅ぼされ、高句麗の領土が拡大しています。また、辰韓・馬韓・弁韓もすべて国が変わっています。

  • 高句麗→領土拡大
  • 辰韓→新羅
  • 馬韓→百済
  • 弁韓→加耶(加羅、任那)

ヤマト政権は、朝鮮半島の加耶に勢力を拡大し、鉄資源の供給地としています。そして、領土を拡大していた高句麗と戦うことになるのです。これを示すのが、高句麗の首都である丸都の近郊に立てられた好太王碑(広開土王碑)です。高句麗が最盛期だった広開土王の墓に、息子の長寿王が立てました。

この好太王碑は、ヤマト政権を知る大切な史料となっています。

スポンサーリンク

好太王碑(広開土王碑)

高句麗好太王碑文
百残新羅は、旧これ属民にして由来朝貢す。而るに辛卯の年を以て来りて海を渡り、百残□□□羅を破り以て臣民となす。…九年乙己亥、百残誓に違い、倭と和通す。…十四年甲辰、倭不軌にして帯方界に侵入す。…倭寇潰敗、斬殺無数なり。

百済新羅はもともと高句麗の属民で、昔から朝貢して来ていた。ところが、391年が海を渡って半島に渡ってきて、百済などを支配下に置いてしまった。…己亥の年には百済は倭と手を結び、14年に倭の軍隊は帯方まで侵入してきた。…倭の軍隊は敗北し、多くの死者が出た。

スポンサーリンク

『宋書』倭国伝

南朝の宋の正史です。5世紀の倭の状況が記載されています。編さん者は沈約(しんやく)という人です。

『宋書』倭国伝
死して弟立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東代将軍・倭国王と称す。…順帝の昇明二年、使を遣はして表を上る。曰く「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を貫き山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。…」

安康天皇が死んで、弟の雄略天皇が位についた。雄略天皇は自分を使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東代将軍・倭国王と名乗った。…順帝の478年雄略天皇は使者を送ってきて上表した。そこにはこう書いてあった。私の支配する国は遠いところにあります。昔から私の先祖は自ら武装して、山や川を越え、ゆっくり休むことなく、東の方の毛人の国を55か国、西では衆夷たちの66か国、さらに海を渡って、北の方の朝鮮半島の95か国を平定しました。

倭の五王

『宋書』倭国伝には、倭の五王の中でも特に「武」雄略天皇についての記述があります。ここで、倭の五王について説明します。倭の五王とはヤマト政権の5人の天皇のことです。

  • (さん)…?天皇
  • (ちん)…?天皇
  • (せい)…允恭(いんぎょう)天皇
  • (こう)…安康(あんこう)天皇
  • (ぶ)…雄略(ゆうりゃく)天皇

『日本書紀』や『古事記』のどの天皇に該当するのか、様々な推測がされていますが、済が允恭天皇、興が安康天皇、武が雄略天皇であることは確実であるとされています。

スポンサーリンク

稲荷山古墳鉄剣銘と江田船山古墳鉄刀銘

残りの2つの史料は日本で出土しています。埼玉県の稲荷山古墳鉄剣銘と熊本県の江田船山古墳鉄刀銘です。先に江田船山古墳の鉄刀銘が発見され、解読不能な文字が獲加多支鹵大王だということがわかりました。

稲荷山古墳鉄剣銘
[表]辛亥の年七月中、記す。乎獲居臣、…
[裏]…世々、杖刀人の首と為り、奉事し来りて今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼宮に在る時、吾、天下を佐治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

[表]471年7月これを記す。私、オワケノオミは…
[裏]…先祖代々、大王に奉仕する杖刀職人の代表をつとめて現在に至っている。ワカタケル大王(雄略天皇)の寺が斯鬼宮(しきのみや)にあったとき、私も大王の統治を手伝った。その記念にこの百錬の刀を作成し、我が業績を文字で残すことにした。

稲荷山古墳鉄刀銘は文字が金で装飾されています。これを金象眼(きんぞうがん)といいます。

江田船山古墳鉄刀銘
天の下治しめす獲□□□鹵大王の世…三寸の好き□刀を上まつる。

天下を治めていたワ(カタケ)ルの大王(雄略天皇)のとき、三寸の良い刀を作った。

江田船山古墳鉄刀銘は文字が銀で装飾されています。これを銀象眼(ぎんぞうがん)といいます。

ヤマト政権の勢力

この鉄剣銘と鉄刀銘が発見されたことで、九州から関東にまで武(雄略天皇)、つまりヤマト政権の勢力が及んでいたことがわかります

地理歴史
スポンサーリンク
シェアする
スポンサーリンク
TEKIBO

コメント

テキストのコピーはできません。