古墳時代の終わりから飛鳥時代に入りましたが、今日は飛鳥時代から律令国家の成立までを見ていきます。奈良時代の入り口までを学習していきましょう。最後に、練習問題がついているので、チャレンジしてみましょう。
大化改新~律令国家の成立
618年に中国を統一した隋から、新しい王朝である唐という強力な王朝が登場しました。朝鮮半島では新羅が半島を統一し、日本も中央集権化を急ぎます。この激動期を詳しく見ていきます。
❷公地公民の制の実施!中央集権的行政祖壱岐の整備
❸白村江の戦いで日本敗北!国防強化へ
❹壬申の乱後の天武・持統朝!天皇の政治権力強化
❺大宝律令の制定!律令国家の成立へ
皇極天皇
舒明天皇の皇后が皇極天皇です。つまり女帝です。のちに重祚して斉明天皇になります。重祚とは、一度天皇に即位しやめた後に、再度天皇に即位することを重祚といいます。この皇極天皇頃に乙巳の変(大化改新)が起こります。
❷乙巳の変で大化改新がスタート!孝徳天皇に譲位
蘇我蝦夷・入鹿親子が権力を握る
皇極朝は、大臣である蘇我蝦夷と蘇我入鹿が権力を握っていました。都は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)です。蘇我入鹿が厩戸王の子である山背大兄王を攻め自害に追い込みます。
そのような状況下に、留学生や学問僧である、高向玄理(たかむこのげんり)、旻(みん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)が帰国します。統一王朝の隋が滅び、強大な唐が建国され、その実力を見てきた連中です。強い集権国家の形成を急ぐ必要がありました。そのためには蘇我氏を排除する必要があったのです。
乙巳の変
そんな中、645年に乙巳(いっし)の変が起こります。中大兄皇子、中臣鎌足らが大臣であった蘇我入鹿を暗殺し、その父親である蝦夷も自殺に追い込みます。これが大化改新の出発点となる事件です。
孝徳天皇
乙巳の変で皇極天皇に変わって擁立されたのが孝徳天皇です。孝徳朝での出来事は、年が連続で続きます。
- 645年…乙巳(いっし)の変
- 646年…改新の詔
- 647年…渟足柵の設置
- 648年…磐舟柵の設置
❷改新の詔!公地公民、班田収授
❸蝦夷の征討!渟足柵、磐舟柵
大化改新
中大兄皇子は皇太子となり、その他の布陣は次の通りです。
- 左大臣…阿部内麻呂(あべのうちまろ)
- 右大臣…蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだのいしかわまろ)
- 内臣(うちつおみ)…中臣鎌足
- 国博士(くにのはかせ)…高向玄理、僧旻
左大臣が右大臣よりも偉いということも覚えておきましょう。都も飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に遷都し、年号も「大化」を使い始めます。
また、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が立てたお寺が山田寺です。このてらの本尊は後に興福寺に仏頭だけ移ります。これが興福寺仏頭です。
改新の詔
大化改新で出されたのが646年の「改新の詔」です。『日本書紀』に記載があります。
其の一に曰く、「昔の天皇等の立てたまへる子代の民、処々の屯倉、及び、別には臣・連・伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処々の田荘を罷めよ。よりて食封を大夫より以上に賜ふこと、各差あらむ。」
其の二に曰く、「初めて京師を修め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅伝・伝馬を置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。」
其の三に曰く、「初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。凡そ五十戸を里と為し、里毎に長一人を置け。」
其の四に曰く、「旧の賦役を罷めて、田の調を行へ。」
第一条、以前から天皇が設けていた子代の民や屯倉、そして豪族である臣・連・伴造・国造・村首たちの所有する部曲、田荘を廃止する。その代わりに食封をその地位に応じて大夫たちに与える。
第二条、都城制を採用する。畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅伝・伝馬などの制度を整え、交通制度を創設し鈴契を造れ。
第三条、戸籍・計帳を整えて班田収授法を確立せよ。
第四条、旧来の税制を廃止し、田の調を徴収することにせよ。
ポイントは次の4点です。
- 豪族の私有地・私有民を廃し、公地公民を目指す。
→代わりに食封(じきふ)という給料を支給 - 中央官制や、のちの「郡」にあたる地方行政組織の評(こおり)の整備。
→日本初の都城は694年の藤原京 - 全国的な戸籍・田地調査を行い、班田収授法の準備を行う。
→まだ方針を示しただけ - 課税台帳の計帳を作成し、統一税制の施行をめざす。
田地に一定の税制を適用しようという目標
蝦夷の征討
東北経営にも力を入れます。改新の詔の翌年647年に日本海側に渟足柵(ぬたりのさく)、さらに翌年の648年には磐舟柵(いわふねさく)が作られます。軍隊を送って支配地を拡大します。
東北経営では、関東地方の農民を渟足柵周辺に移住させ柵戸(さくこ)としたり、東北地方の支配下に入った人々を俘囚(ふしゅう)としてヤマト政権下に移住させたりもしています。
斉明天皇
孝徳天皇没後は斉明天皇が重祚します。皇極天皇でしたね。蝦夷の征討では阿倍比羅夫(あべのひらふ)が秋田地方に派遣されます。
❷百済の滅亡→斉明天皇崩御→中大兄皇子の称制
阿倍比羅夫
蝦夷の征討では阿倍比羅夫(あべのひらふ)が秋田地方に派遣されます。北海道まで航海し、蝦夷の征討を行っています。
また、この次に出てくる白村江の戦いにも征新羅将軍として百済救援のために朝鮮半島に向かいましたが、唐・新羅連合軍に大敗しています。
百済の滅亡
朝鮮半島では、任那の消滅後、百済と新羅、高句麗が勢力を争っていましたが、ついに660年に百済が滅びます。唐と新羅の挟み撃ちに合い滅亡します。斉明天皇の治世です。その後、高句麗が滅び新羅が朝鮮半島を統一します。
- 百済 → 660年に滅亡
- 高句麗 → 668年に滅亡
- 新羅 → 676年に朝鮮半島統一
- 渤海 → 7世紀末に旧高句麗の場所に起こる
白村江の戦い
斉明天皇は、百済の再興のために軍隊を派遣しようとしますが、筑紫の朝倉宮で急死してしまいます。このため、中大兄皇子が即位の儀式を行わないまま天皇の役割を果たします。これを称制(しょうせい)と呼びます。
- 斉明天皇が朝倉宮で崩御
↓ - 中大兄皇子の称制
↓ - 阿倍比羅夫が白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れる
↓ - 国防の強化
白村江の戦いで敗れた日本の防御態勢を整えます。このとき、日本に亡命した百済人の技術が活用されます。
- 烽(とぶひ)…狼煙(のろし)、対馬・壱岐・筑紫に設置
- 防人(さきもり)…九州の海岸線の防衛
- 水城(みずき)…大宰府の防衛、堀を伴う大規模な土塁
- 大野城・基肄城(きいじょう)…朝鮮式山城、対馬から大和にかけて
朝鮮式山城とは、山の稜線に沿って土塁・石塁をめぐらした城になります。白村江の戦い前後の歴史の流れは次の通りです。
- 660年 百済滅亡
- 663年 白村江の戦い
- 668年 高句麗の滅亡
- 676年 新羅の朝鮮半島統一
唐と新羅は日本には攻めてきませんでした。今度は唐と新羅が争うようになったためです。
天智天皇
斉明天皇が崩御した後、中大兄皇子が称制で政治を行っていましたが、いよいよ668年に天智天皇に即位します。ここも出来事を年代順に追っていきましょう。
❷667年…近江大津宮に遷都
❸668年…天智天皇即位、「近江令」の制定
❹670年…最初の全国的戸籍「庚午年籍」の作成
❺671年…天智天皇崩御→672年…壬申の乱
甲子の宣
甲子の宣(かっしのせん)とは、白村江の戦いで敗れた中大兄称制は、大陸からの侵攻、対外政策の失敗を追及する諸豪族の動向ににらみを利かせるために出されたものです。
氏の代表者である氏上を確定し、氏にランク付けをするとともに冠位二十六階を定め、彼らの所有民である部曲も確認しています。
近江大津宮遷都
白村江の戦いで敗れた中大兄称制は、667年に都を沿岸付近から内陸部に移動します。飛鳥宮から近江大津宮に遷都します。ここで、転々とした都の確認です。
- 皇極天皇…飛鳥板蓋宮
↓ - 孝徳天皇…難波長柄豊碕宮
↓ - 斉明天皇…飛鳥板蓋宮
↓ - 天智天皇(中大兄称制)…近江大津宮
↓ - 天武天皇…飛鳥浄御原宮
↓ - 持統天皇…藤原京
後に登場する持統天皇が、日本で初めての都城制である藤原京に遷都します。平安京遷都の100年前の694年です。
近江令
668年に正式に中大兄皇子は天皇に即位し天智天皇となりました。このときに出されたのが、全22巻からなる最初の「令」である近江令です。令とは刑法以外の法律を指しており、主に行政法、民事法、訴訟法などをいいます。一方、後に出される「律令」の「律」は刑法を指します。
近江令の原本は現存せず、存在を裏付ける史料もないことから、存在説と非存在説の間で現在も論争が続いています。この近江令は律令制導入の先駆的な法令であり、後の飛鳥浄御原令や大宝律令に影響を与えたとされています。
最初の全国的戸籍「庚午年籍」
庚午年籍(こうごねんじゃく)は、670年(庚午の年)に作られた、日本で最初の全国的な戸籍です。現存はしませんが、氏や姓を正確に把握し、根本台帳として永久的に保存しようとしたものです。
壬申の乱
日本の国政改革を急いだ天智天皇ですが、671年に崩御します。このあと継ぎ争いが672年の壬申の乱です。天智天皇の弟での大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の息子の大友皇子の争いになります。
壬申の乱で勝利をおさめたのは、弟の大海人皇子で、翌673年に天武天皇として即位します。天武天皇が即位した都は飛鳥浄御原宮です。戦争で勝利してできた政権ですので、非常に強力な政権になります。それを表す歌が万葉集に残っています。
大君は 神にし坐せば 赤駒の
腹這ふ田井を 都となしつ
大君は神である。赤毛の馬が砂浴びをしているような何もないところを、瞬く間に都にしてしまわれた。
大君は 神にし坐せば 天雲の
雷の上に いほりせるかも
大君は神である。あの雲の上、雷様の上に、家を構えて住んでおられる。
天武天皇
673年に天皇に即位した天武天皇は、権力の頂点にあります。国政改革を進めていきます。この天武天皇から「天皇」という称号が使われるようになったといわれています。
❷日本で最初の銭「富本銭」の発行!
❸国家仏教が本格化!薬師寺や大官大寺の建立
八色の姓
天武天皇は、675年に豪族の私有する部曲を廃止します。同時に飛鳥浄御原令、『日本書紀』、『古事記』の編纂を命じます。さらに多くの姓を一新し、8つの姓に統一します。これが八色の姓(やくさのかばね)です。順序は次の通りです。
- 真人(まひと)
- 朝臣(あそみ)
- 宿禰(すくね)
- 忌寸(いみき)
- 道師(みちのし)
- 臣(おみ)
- 連(むらじ)
- 稲置(いなぎ)
天皇に近い順に8ランクに、従来の姓を統一しました。冠位十二階が個人に対して与えられたのに対して、八色の姓は氏単位に設定されました。
富本銭の発行
日本最古の銭として富本銭の発行が行われます。これまで、日本で最も古い貨幣は和同開珎だとされていましたが、『日本書紀』に天武朝で富本銭が発行されたことが書いてあり、実際に飛鳥池遺跡から発掘されました。
鎮護国家「薬師寺」「大官大寺」の造立
天武朝は仏教を国家事業とし、寺院の建立に着手しています。仏教の力にすがって国を治めるという鎮護国家の思想がスタートします。護国の経典と呼ばれる金光明経(こんこうみょうきょう)、仁王経(にんのうきょう)が重宝されます。
また皇后の病気治癒を願って薬師寺の建立、大官大寺の建立も始まりました。大官大寺は後に平城京に移って大安寺となることも覚えておきましょう。
持統天皇
そんな天武天皇ですが、志半ばで崩御します。それを引き継いだのが皇后の持統天皇です
❷班田を実施するための庚寅年籍の作成!
❸日本初の都城「藤原京」の完成!
飛鳥浄御原律令
天武天皇が作成を着手し、皇后の持統朝で完成したのが飛鳥浄御原律令です。西暦689年に施行されました。
庚寅年籍
天智朝のときに作られたのが庚午年籍でしたが、飛鳥浄御原律令に対応して班田を実施するために庚寅年籍(こういんねんじゃく)がつくられます。
藤原京の完成
日本にもやっと中国のような都城制を採用した本格的な都が完成します。それが藤原京です。平安京遷都の100年前の694年に完成します。
文武天皇
持統天皇は697年に、孫の文武天皇に譲位します。天武朝の最大のポイントは大宝律令の完成です。
大宝律令
701年に、日本で最初の律令である大宝律令が完成します。大宝律令をまとめたのは刑部親王と藤原不比等になります。
大宝律令の完成で律令国家の形成が進みます。
【問題】大化改新~律令国家の形成の練習問題
(1)蘇我蝦夷・入鹿らが( ① )王を滅ぼしたのに対し、( ② )皇子は中臣鎌足らと共に2人を倒して公地公民制を基本方針とする改新政治をすすめた。唐から帰国した( ③ )や僧旻は( ④ )に任命され、唐の律令制度にならった中央集権国家建設を目指した。
(2)( ① )復興に協力した中大兄皇子は、白村江の戦いに敗戦後、都を( ② )宮に移し、大宰府の北方に大きな堀と土塁を設けた( ③ )を築いたり、大野城などの( ④ )を西日本に設置するなど国防に力を入れた。同時に、初の全国戸籍である( ⑤ )を作成し、初の令である( ⑥ )も制定された。
(3)乙巳の変後、政治改革を主導してきた天智天皇が亡くなると、王位継承をめぐり( ① )がおこり、大海人皇子が( ② )皇子の朝廷を倒した。大海人皇子は( ③ )で即位し天武天皇となり、( ④ )を定めて豪族たちを天皇中心の身分秩序に再編するなど中央集権化を進めた。彼の死後は、皇后であった( ⑤ )天皇が政策を受けついだ。
【解答】大化改新~律令国家の形成の練習問題
(1)蘇我蝦夷・入鹿らが(①山背大兄)王を滅ぼしたのに対し、(②中大兄)皇子は中臣鎌足らと共に2人を倒して公地公民制を基本方針とする改新政治をすすめた。唐から帰国した(③高向玄理)や僧旻は(④国博士)に任命され、唐の律令制度にならった中央集権国家建設を目指した。
(2)(①百済)復興に協力した中大兄皇子は、白村江の戦いに敗戦後、都を(②近江大津)宮に移し、大宰府の北方に大きな堀と土塁を設けた(③水城)を築いたり、大野城などの(④朝鮮式山城)を西日本に設置するなど国防に力を入れた。同時に、初の全国戸籍である(⑤庚午年籍)を作成し、初の令である(⑥近江令)も制定された。
(3)乙巳の変後、政治改革を主導してきた天智天皇が亡くなると、王位継承をめぐり(①壬申の乱)がおこり、大海人皇子が(②大友)皇子の朝廷を倒した。大海人皇子は(③飛鳥浄御原宮)で即位し天武天皇となり、(④八色の姓)を定めて豪族たちを天皇中心の身分秩序に再編するなど中央集権化を進めた。彼の死後は、皇后であった(⑤持統)天皇が政策を受けついだ。
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