大学入試小論文「慶應義塾大学総合政策部(2008年度)の解答例」です。小論文テーマ「教育哲学」についての考察です。教育の哲学そのものについてを論じさせる課題が出されることも少なくありません。近代以降、その教育について哲学者も多いので、著名な教育哲学者についての考えについては頭にいれておくことがいいでしょう。
カント・デューイ・アーレントの教育観についての解答例
教育は、子どもが潜在的な能力を活かす機会を奪ってはならないという考えは、三者間で一致する。しかし、学校の意義や役割から見出だす、教育者と学習者の在り方については意見の相違が目立つ。
まず、カントは学校という集団生活の中で、教師による統治と子どもの自由との均衡を取ることの難しさを懸念している。そこでは、生徒が社会において不可避な抵抗を感じ取り、強制されながらも自由を行使する能力を身に付ける必要がある。だが、その際には留意すべきことがある。将来、他者の配慮に依存しないためという強制の意味を、子ども自身に対して明確に示すということだ。そして強制的でありながら奴隷的ではない教育を目指す。
カントの目指す教育は中立的であるが、デューイは完全に子どもの自由を主張し、子どもが教育の中心にいるべきだとしている。学校は、大抵の家庭で比較的貧弱に、偶然的に行われていることを、組織的に、かつ大規模に行う場である。カントと対立する点として、デューイは学校においての支配者は子どもであるとしている。また、その環境の中の仕事や関係は子どもの成長のためではなく、子どもがそれらから獲得するものは付随的なものであると考える。
最も教師による統治を支持しているのは、アーレントである。子どもの独立を尊重しようとすると、子どもの世界は絶対化されてしまう。さらに、教育する者と学習する者との関係を断ち切り、子どもが成人への準備段階であることをごまかしてしまう。ゆえに、教育者は権威に対する責任を持ち、既存の世界を代表する立場であるべきだ。そしてその教育者は若者を大人の世界に導く必要があるという点は、アーレントとカントと共通している。さらに、アーレントは、学校の機能は生きる技法を指導することではなく、世界がどのようなものであるかを教えることであるという見解をしている。これは、自ら生計を立てることの困難さを認識させようとするカントの意志に反する。アーレントの根本的な学校の在り方はデューイのそれとは正反対の意見である。しかし、アーレントとデューイの教育者は教育の領域を、公的領域から明確に分離して学習者に接すべきだという志向は同様である。
カント・デューイ・アーレントの教育観についての考察(一部抜粋)
<前提1 生きた時代が違う>
- 旧教育 カント(1724-1804)
- 新教育(近代) デューイ(1859-1952) アーレント(1906-1975)
<前提2 予備知識(教養)として、それぞれの教育観を知っておくといいでしょう。>
- カント 教育は特定の社会に順応することを目標とするのではなくて、世界主義的な人間そのものの完成を目標。
- デューイ 学校そのものを小型の「社会」、子どもの生活の場としての「共同体」にしていくことが目的
- アーレント 教育は家庭重視。「学校」は「公的なもの」と「私的なもの」を媒介する位置。教育は、子どもVS大人の構図で大人の旧価値を思いっきり子供にぶつけること。
カント・デューイ・アーレントの教育観についての講評(一部抜粋)
(教育する者(親・教師)と学習する者(子供・生徒)の関係以外の教育や学校の在り方について触れている点は、蛇足的。
登場人物が多いときは、主語が誰かはっきりさせたほうがいいので、この点はよい。
<より体系的にするため>
(例1)
「3人の共通点は、こうだ。
xについては、AとBは共通し、Cとは対立している。
しかしながら、yについて、AとBは対立している。
一方では、zについては、AとCは共通している。」
(例2)
「3人の共通点は、こうだ。
AとBの共通点は、xだ。
AとCの共通点は、yだ。
BとCの共通点は、zだ。
3人の意見が対立しているのが、pだ。」など
など流れの柱(今回は比較項目)を決めて書くといいでしょう。また、このように比較させるときは、マトリクスを作ることもおすすめです。
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