【大学受験・日本史】古墳時代|大和政権や古墳文化

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邪馬台国とその前後の時代について学びます。共同で農業をおこなっているムラが発達。隣のムラと水利をめぐって協力したり対立したりするのがこの時代です。やがて、小国が乱立して、国家統一に向けた争いへと発展していきます。ポイントは、中国史料からの日本の記述です。

中国との接点

「漢書地理志」と「後漢書東夷伝」から当時の日本の様子をさぐることができます。

  • 「漢書地理志」…倭の名前で日本が登場し、最古の日本記事で、日本は、100ばかりの国があると記載されていました。
  • 「後漢書東夷伝」…奴国王の遣使は光武帝印綬を授ける(57年)と記述。証拠として、1784年に志賀島(福岡)で見つかったの金印「漢委奴国王」
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漢帝国の設立/前202~後220

始皇帝の死後、農民出身の 量子た。前202年のことである。 武帝の時代が最盛期。後8年、王葬によって倒されたが、25年、劉秀は漢王朝を復興した。

邪馬台国の出現

魏志倭人伝によると3世紀あたりに倭国大乱後、30のクニが卑弥呼という女王を共立し、女王国の邪馬台国が他を従え、出現されたとあります。239年、卑弥呼は「親魏倭王」の称号と金印紫綬を贈られる。
参考入試に出る日中関係史

ポイント

1世紀ごろに小国分立、3世紀初めに卑弥呼が登場します。

  • 奴国…奴国の王が、57年に中国の漢(後漢)に使いを送り、「漢委(倭)奴国王」の金印を授かる。
  • 邪馬台国…約30の小国を従えていた。身分のちがいや貧富の差があった。
  • 卑弥呼…邪馬台国の女王。239年に中国の魏に使いを送り、金印と「親魏倭王」の称号などが授けられる。

大和政権

中国の史書からは、その大和政権についての記述はなく、「古事記」「日本書紀」といった日本の神話の中からでしか、その当時のことを知ることはできません。日本武尊(ヤマトタケル)が最終的に統一したことを押さえておきましょう。

古事記と日本書紀

歴史書として、712年に、稗田阿礼が暗誦したものを大安万侶が『古事記』としてまとめ、720年には舎人親王らが『日本書紀』を編さんした。地理書としては、国ごとに地名の由来・産物・伝承などを記した風士記がつくられた。18世紀の後半には、天皇や貴族、農民・防人らの作品約4500首を収めた日本最古の和歌集である『万葉集』がまとめられた。代表的な万葉歌人として大伴家持・柿本人麻呂・ 山上憶良・額田王らが知られ、表記には日本語を漢字で表した万葉がなが使われていた

古墳時代

古墳時代は、前期・中期・後期の3つに分かれ、ちょうど中期ごろが、大和政権の時代になります。

代表的な古墳

  • (前期)箸墓古墳…奈良県桜井市にあり、前方後円墳。
  • (中期)大仙陵古墳…大阪府堺市にあり、仁徳天皇陵で日本最大486m。
  • (後期)石舞台古墳…奈良県にあり蘇我馬子の墓という説もあります。

※ 副葬品の特徴として、「前期は、呪術」で、「中期は、武器」で、「後期は、農具」が多いです。

渡来人

この頃、渡来人が日本に来ています。新しい技術を日本にもたらします。代表的な渡来人として、王仁と弓月と阿知です。中でも、西文氏の祖となった王仁は、論語・千字文を伝えたとされ、弓月君は秦(はた)氏の祖で、そのまま機織り・養蚕を伝えたとされます。

宗教の伝来

儒教と仏教も相次いで伝わってきます。伝えたのは「百済」の「聖明王」から「欽明天皇」へとされ、聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』のなかでは、538年に伝わったとなっています。

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