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高校日本史「飛鳥時代の要点・練習問題」

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飛鳥時代について学んでいきます。飛鳥時代のポイントは、国際的緊張の中、中央集権国家の建設を目指した時代だということです。それでは、飛鳥時代の年表(流れ)からみていきましょう。

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飛鳥時代の流れ

飛鳥時代は、推古朝を中心とするその前後の時代を飛鳥時代としています。古墳時代の後期あたりと飛鳥時代の初めころがちょうどかぶっているのです。継体天皇くらいから押さえておけばいいでしょう。

継体天皇の頃

武烈天皇のあと、大伴金村によって擁立されたのが継体天皇です。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)として登場します。継体朝のポイントは次の通りです。

継体朝のポイント東アジア情勢の変化!
❶高句麗南下→新羅・百済圧迫→大伴金村が任那4県割譲
❷新羅が任那に進出→新羅と結んだ磐井の乱が起こる

継体朝の頃東アジアの情勢が緊迫します。高句麗が南下をはじめ、新羅、百済が圧迫されます。当時の朝鮮半島は下図の状況でした。

4世紀の中国・朝鮮半島

大伴金村は百済を救助するために、ヤマト政権が支配していた加耶西部を百済に割譲します。これが任那4県割譲です。

飛鳥時代 任那4県割譲

これに対して、百済は有効の印として儒教の五経博士を日本に送ります。五経とは儒教の経典で、「詩経(しきょう)・書経(しょきょう)・礼記(らいき)・易経(えききょう)・春秋(しゅんじゅう)」の5つを指しています。

しかし、高句麗に圧迫された新羅の加耶への進出が止まらなかったので、ヤマト政権は軍隊を朝鮮半島に上陸させようとしましたが、そこで起こったのが筑紫国造(福岡県)であった磐井の乱(527年)です。

  • 527年磐井の乱…筑紫国造磐井が新羅と結んで反乱

『日本書紀』には、磐井は新羅から賄賂をもらって乱を起こしたと記されています。これにより、ヤマト政権軍は朝鮮半島に上陸できませんでした。この磐井の乱を鎮圧したのが大伴金村物部麁鹿火(あらかび)です。

福岡県の岩戸山古墳は筑紫国造岩井の墓だとされていることも復習しましょう。石人・石馬で有名ですね。

継体天皇の後は安閑天皇、宣化天皇と続き、そして欽明天皇の即位です。

欽明天皇の頃

欽明朝のポイントは、朝鮮半島南部の情勢と有力豪族の勢力争い、そして仏教公伝です。

欽明朝のポイント❶任那の滅亡!
❷任那4県割譲による大伴金村の失脚!
❸百済から仏教公伝→崇仏論争勃発!

磐井の乱後、大伴金村物部尾輿大連蘇我稲目大臣とする体制が気付かれましたが、その後ヤマト政権が朝鮮半島で支配していた任那が滅亡します。大伴金村が行った任那4県割譲の意味がなかったことの責任をとり、540年に大伴金村は失脚します。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがります。

  • 540年任那4県割譲大伴金村の失脚物部氏と蘇我氏の台頭

そして、欽明天皇の治世で最も大きな出来事が仏教公伝です。百済の聖明王からヤマト政権の欽明天皇に伝えられました。『日本書紀』によると552年に仏教が伝わったとされています(壬申説)が、『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』によると、538年に仏教公伝とされています(戊午説)

欽明天皇は蘇我稲目にこれを託して仏教を興すように命じています。これにより、仏教を積極的に導入しようとする蘇我氏と、仏教の導入に懐疑的な物部氏の確執が生じます、これが崇仏論争です。これは子の蘇我馬子と物部守屋の代で決着がつきます。馬子が丁未(ていび)の乱で物部氏を滅ぼしたことで決着がつきます。

  • 552年仏教公伝(壬申説)『日本書紀』
  • 538年仏教公伝(戊午説)『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』

欽明天皇の願いは任那復興でしたが、それは叶わず崩御します。その後は敏達天皇、用明天皇と続き、蘇我馬子によって擁立される崇峻天皇が登場します。

崇峻天皇の頃

崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されたわけですから、蘇我氏の絶頂期をむかえているわけです。蘇我氏は連ではなく臣でしたね。
崇峻朝のポイント❶三蔵をにぎり蘇我氏の絶頂期をむかえる!
❷物部守屋を倒し崇仏論争に決着!
❸蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺→推古天皇擁立!

まず、蘇我氏は三蔵(さんぞう)である「斎蔵(いみくら)」「内蔵(うちつくら)」「大蔵(おおくら)」の3つの蔵、要するに財政をにぎります。

また、渡来人とも結びつき、大陸の進んだ文化の受容を積極的に推進します。もちろん崇仏派です。物部氏と崇仏か廃仏かで争っていましたが、蘇我馬子が物部守屋を丁未(ていび)の乱で滅ぼし、権力の絶頂期をむかえます。南北朝で混沌としていた中国では、がついに統一を果たします。

崇峻天皇は蘇我馬子によって擁立されましたが、軋轢が生まれたことで馬子らの手によって暗殺されてしまいます。

  • 587年三蔵を掌握し、大臣蘇我馬子(財政担当)が大連物部守屋(軍事担当)を滅ぼす。→崇仏論争に決着
  • 589年が南北朝を統一
  • 592年|蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺→推古天皇擁立

推古天皇の頃

厩戸王(聖徳太子)と大臣蘇我馬子による政治、飛鳥文化が開花します。ここは下記の「聖徳太子」で詳述しています。

  • 594年仏法興隆の詔
  • 600年|倭国の使者が隋に到着(『隋書』倭国伝のみ記載)
  • 603年冠位十二階の制…(徳・仁・礼・信・義・智)位階は個人に対して1代限り
  • 604年憲法十七条…豪族たちに国家の官僚としての自覚を求める「和を以て貴しとなし」「驚く三宝(仏教)を敬へ」
  • 607年遣隋使の派遣小野妹子の派遣(『隋書』倭国伝・『日本書紀』ともに記載)
  • 608年|隋の皇帝場帝は答礼使斐世清を派遣→高向玄理・南淵請安・僧旻ら留学生を連れて、隋に帰国
  • 618年|障が滅び、がおこる
  • 620年『天皇記』『国記』の成立…厩戸王と馬子が編集しはじめたとされる歴史書

舒明天皇の頃

推古天皇の崩御後、蘇我蝦夷によって擁立されています。政治権力の中枢はまだ蘇我氏です。

舒明朝のポイント❶第1回遣唐使の派遣!犬上御田鍬
❷高向玄理・南淵請安・僧旻らが帰国!

舒明朝のポイントは遣唐使のみです。隋に変わって唐が起こったので、遣隋使から遣唐使に変わっています。この第1回遣唐使として派遣されたのが犬上御田鍬です。ちなみに614年の最後の遣隋使も犬上御田鍬です。

  • 630年|最初の遣唐使の派遣…犬上御田鉄の派遣

このとき、のちの大化の改新前後で活躍する、高向玄理・南淵請安・僧旻が帰国します。

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聖徳太子

厩戸王(聖徳太子)は、最初の女帝である推古天皇の甥、用明天皇の第2皇子で、推古天皇の皇太子、摂政となり、蘇我馬子と協力して、中国や朝鮮に学び、大王(天皇)中心の政治を、次のような政治を行いました。

冠位十二階の制

冠位十二階のポイント❶憲法十七条の前年の603年に制定!
❷家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を役人に取り立てる制度!
❸豪族単位ではなく、天皇(大王)から見て有能な人物に冠位を与えた!
❹冠位は「徳・仁・礼・信・義・智」の順で各上下に分かれる!

家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を役人に取り立てる制度で603年に制定されます。これまでの豪族単位での世襲制が是正されます。天皇(大王)から見て個人にランクを付けていく制度です。冠位は上から次のように分かれています。

さらに各位が大・小に分かれているので十二階となるのです。

憲法十七条の制定

憲法十七条のポイント❶冠位十二階の次の年604年に制定!
❷権利や義務、刑罰などを定めたものではなく、役人の心構えを説いている!
❸仏教や儒教の教えを取り入れている!

仏教や儒学の教えを取り入れ役人の心構えを説いた憲法で、604年に制定されました。

<よく入試に出る部分>

『日本書紀』憲法十七条
皇太子、親ら肇めて憲法十七条をつくる。
一に曰く、和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。

第1条、和を大事にし、争うことが無いようにせよ。…
第2条、仏教を尊重せよ。三宝とは仏と法と僧である。…
第3条、天皇の命令が出たらこれを謹んで尊重せよ。天皇は天であり、臣下は地である。…

遣隋使

遣隋使のポイント!❶600年の遣隋使は日本には記録がなく、『隋書』倭国伝に記載がある!
❷607年の遣隋使には小野妹子が大使として派遣!隋の煬帝と接見!
❸608年の遣隋使には高向玄理、僧旻、南淵請安が随行!

小野妹子などを隋の進んだ制度や文化を問い入れるために派遣されました。『隋書』倭国伝には600年に派遣があったようですが、『日本書紀』には記述がありません。

『隋書』倭国伝 ~600年の遣隋使~
開皇二十年、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏彌と号す。使を遣して闕に詣る。、所司をして其の風俗を訪はしむ。…

西暦600年、倭の王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)が使者を皇帝のもとに派遣してきた。文帝は役人に命じて、倭の風俗などについて尋ねさせた。

次は607年の派遣です。このときに隋に渡ったのが小野妹子です。

『隋書』倭国伝 ~607年の遣隋使~
大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。…
其の国書に曰く、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや云々」と。、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復た以て聞する勿れ」と。明年、上、文林郎裴清を遣して倭国に使せしむ。

西暦607年、倭の王、多利思比孤が使者を派遣し、朝貢してきた。その国書には、「太陽の出る所に住む天子から、太陽の沈む所に住む天子に手紙を出します。お元気ですか」とあった。煬帝はこれを見て不快になった。外交の担当者に、蛮夷のこの手紙は無礼だ、二度とこんな手紙を受け取るなと命じた。しかし、翌年、煬帝は文林裴世清を使者として倭国に派遣しました。

中国を統一した隋にこのような無礼な手紙を出すのは、一種のかけでもあったと思います。しかし、当時、隋は高句麗との戦いで苦労していたから事なきを得ました。この608年の答礼使は、『日本書紀』にも記述があります。

『日本書紀』 ~608年の答礼使~
推古天皇十六年九月辛巳、唐客裴世清罷り帰る。即ち復た小野妹子臣を以て大使と為し、…唐客に副へて遣す。…其の辞に日く「東天皇、敬しみて西皇帝に白す。…」と。

西暦608年9月、中国から来た裴世清が帰国した。そこでもう一度、小野妹子を大使として、…これにそえて派遣することになった。…妹子が持って行った国書には、「東の天皇から西の皇帝に手紙を差し上げます。…」とあった。

このとき小野妹子と一緒に隋に渡ったのが高向玄理(たかむこのげんり)と僧旻(そうみん)、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の3人です。のちに帰国し、国政改革に影響を与えます。

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飛鳥文化

飛鳥文化は、聖徳太子や蘇我馬子を中核とするヤマト政権が、仏教を保護し信仰をすすめたことから、都のおかれた飛鳥地方で、天皇や豪族を中心としたわが国最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えました。推古朝の前後を指します。

特に、仏教の伝来が、どう日本の政治や社会・文化に与えたかについてはしっかり押さえておきましょう。

仏教の影響
教義の伝来だけでなく、渡来人が伝えていた土木、工芸、文学などの実用的な技術の導入が僧侶を通じておこなわれ、政権運営にも活用された。このころから、古墳にかわり寺院建築が豪族の権威の象徴になっていった。
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飛鳥文化の特徴

飛鳥文化は、遣隋使や渡来人などによって伝えられた中国・ギリシャ・ペルシャ・インドなどの文化の影響を強く受けて、国際性のある文化となっています。

飛鳥文化の特徴❶最初の仏教文化
❷飛鳥・斑鳩(法隆寺)が中心
❸中国南北朝文化を朝鮮半島経由で受容
❹北魏は「厳しい」南梁は「柔和」な表情
❺西アジア・インド・ギリシア・ペルシャなどの世界の文化の影響

飛鳥時代の寺院・建築

飛鳥時代になると、権威の象徴が古墳から寺院に変わってきます。仏教の影響ですね。豪族達も氏寺を建立し始めます。建立した豪族や人物まで覚えておきましょう。

  • 飛鳥寺(法興寺)…596年に蘇我馬子の命で建てられる。日本最初の寺。礎石の上に柱を立て、屋根に瓦を葺いた本格的な寺院。のちに平城京に移って元興寺と名称が変わります。
  • 法隆寺(斑鳩寺)…現存する世界最古の木造建築で、聖徳太子によって建立。国際色豊かなエンタシスの柱が特徴。若草伽藍跡が見つかったことで、法隆寺再建説浮上。
  • 四天王寺…聖徳太子が、物部守屋と蘇我馬子の合戦を祈って建立。
  • 広隆寺…秦氏が聖徳太子から賜った仏像を安置したことで始まる。
  • 中宮寺…聖徳太子が母親の住居を、その死後に寺にしたもの。
  • 百済大寺…舒明天皇の命により建立、。のちに大官大寺、平城京の大安寺に名称が変わります。
  • 法隆寺金堂・五重塔…世界最古の木造建築物。重厚でどっしりとしたつくりが特徴。

法隆寺金堂・五重塔

飛鳥時代の仏像

南北朝時代の影響を受けています。北魏様式は「厳しく、整った」表情、南梁様式は「柔和でやわらかな」表情がポイントです。

  • 法隆寺金堂釈迦三尊像…北魏様式で製作者は鞍作鳥(止利仏師)、金銅象で座像
  • 法隆寺夢殿救世観音像…北魏様式、木像で立像、宝珠を持っている
  • 法隆寺百済観音像…南陵様式、木造で立像、水瓶を持っている
  • 中宮寺半跏思惟像…南陵様式、木造、頭に宝珠を乗せている
  • 広隆寺半跏思惟像…南陵様式、木造、宝冠をかぶっている
  • 飛鳥寺釈迦如来像…北魏様式で鞍作鳥(止利仏師)作、現存最古の仏像

飛鳥文化の仏像

飛鳥時代の絵画・工芸

高句麗の僧である曇徴が紙、絵の具を伝え、絵画・工芸も発達。代表的なものは、次の2つです。

  • 法隆寺玉虫厨子…「捨身飼虎図」が描かれている。
  • 中宮寺天寿国繍帳…「天寿国曼荼羅」とも呼ばれる。

飛鳥時代の書物

厩戸王(聖徳太子)が記した仏教の注釈書「三経義疏」三経とは法華経(ほっけきょう)勝鬘経(しょうまんきょう)、維摩経(ゆいまきょう)を指します。厩戸王(聖徳太子)に仏教を教えたのが高句麗の僧である恵慈(えじ)であることも覚えておきましょう。

百済の僧観である観勒が暦法・天文を伝えたこともおさえておきましょう。

仏教の伝来

仏教の伝来は古墳文化で学習しました。もう一度復習しておきましょう。

ここでは仏教私伝をもっと詳しく見てみましょう。平安時代末期に皇円(こうえん)という僧が書いた歴史書である『扶桑略記』を確認しましょう。

『扶桑略記』仏教私伝
第廿七代継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村司馬達人、此の年春二月に入朝す。即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結びて、本尊を安置し、帰依礼拝す。世を挙げて皆云ふ、「是れ大唐の神なり」と。

継体天皇の16年、中国からやってきた司馬達人がヤマト政権に使えることとなり、小さなお堂を大和国高市郡の坂田原に建て、仏像を安置して礼拝した。これを見た人々は「あれは中国の神」を拝んでいるのだと言った。

この司馬達人の孫が鞍作鳥(くらつくりのとり)だとされています。鞍作鳥は止利仏師(とりぶっし)とも呼ばれます。飛鳥文化を代表する、法隆寺金堂釈迦三尊像の作者です。

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【問題】飛鳥時代・飛鳥文化の練習問題

(1)6世紀になると、高句麗や新羅が強大化し、倭が影響力を持っていた( ① )諸国に新羅が進出した。朝鮮半島南部の権益を確保するために軍隊を送ろうとしたが、( ② )と結んだ筑紫国造( ③ )が反乱した。

(2)欽明天皇のもとで崇仏派の大臣の( ① )と廃仏派の大連の( ② )がが権力争いをしながらも、ヤマト政権は支配体制を強化した。

(3)( ① )は推古天皇のもと、崇峻天皇を暗殺させた( ② )とともに大和朝廷の改革を行った。豪族個人を官僚として登用する( ③ )の制、官僚としての心構えを説く( ④ )などを制定した。

(4)607年には( ① )を隋に派遣して、隋と対等の国交を求めた。608年には後の改革に影響を及ぼした高向玄理や僧旻、( ② )などが随行した。

(5)607年倭王からの使いがあり、その国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあるのを、隋の皇帝( ① )は悦ばなかったが、翌年、答礼使として( ② )を倭国へ派遣した。

(6)この時期には渡来人や遣隋使などで多くの文化が日本に伝わった。( ① )の僧観勒が暦を、( ② )の僧曇徴が紙や墨の製法を伝えた。

【解答】飛鳥時代・飛鳥文化の練習問題

(1)6世紀になると、高句麗や新羅が強大化し、倭が影響力を持っていた(①加耶(加羅、任那))諸国に新羅が進出した。朝鮮半島南部の権益を確保するために軍隊を送ろうとしたが、(②新羅)と結んだ筑紫国造(③磐井)が反乱した。

(2)欽明天皇のもとで崇仏派の大臣の(①蘇我稲目)と廃仏派の大連の(②物部尾輿)が権力争いをしながらも、ヤマト政権は支配体制を強化した。

(3)(①厩戸王(聖徳太子))は推古天皇のもと、崇峻天皇を暗殺させた(②蘇我馬子)とともに大和朝廷の改革を行った。豪族個人を官僚として登用する(③冠位十二階)の制、官僚としての心構えを説く(④憲法十七条)などを制定した。

(4)607年には(①小野妹子)を隋に派遣して、隋と対等の国交を求めた。608年には後の改革に影響を及ぼした高向玄理や僧旻、(②南渕請安)などが随行した。

(5)607年倭王からの使いがあり、その国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」とあるのを、隋の皇帝(①煬帝)は悦ばなかったが、翌年、答礼使として(②裴世清)を倭国へ派遣した。

(6)この時期には渡来人や遣隋使などで多くの文化が日本に伝わった。(①百済)の僧観勒が暦を、(②高句麗)の僧曇徴が紙や墨の製法を伝えた。

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