【大学受験・日本史】飛鳥時代|推古朝と飛鳥文化

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飛鳥時代について学んでいきます。飛鳥時代のポイントは、国際的緊張の中、中央集権国家の建設を目指した時代だということです。それでは、飛鳥時代の年表(流れ)からみていきましょう。

飛鳥時代の流れ

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継体天皇の頃

  • 527年|磐井の乱…筑紫国造磐井が新羅と結んで反乱で、大伴氏の台頭

欽明天皇の頃

  • 540年|大伴金村の失脚・加耶西部で百済の支配権確立で、物部氏と蘇我氏の台頭

崇峻天皇の頃

  • 587年|三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)の管理し、大臣蘇我馬子(財政担当)が大連物部守屋(軍事担当)を滅ぼす
  • 589年|隋が南北朝を統一
  • 592年|蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺 (推古朝の政治)

推古天皇の頃

厩戸王(聖徳太子)と大臣蘇我馬子による政治, 飛鳥文化が開花

  • 594年|仏法興隆の詔
  • 600年|倭国の使者が隋に到着(『隋書』倭国伝のみ記載)
  • 603年|冠位十二階の制…徳・仁・礼・信・義・智, 位階は個人に対して1代限り
  • 604年|憲法十七条…豪族たちに国家の官僚としての自覚を求める「和を以て貴しとなし」「驚く三宝(仏教)を敬へ」
  • 607年|遣隋使の派遣…小野妹子の派遣(『隋書』倭国伝・『日本書紀』ともに記載)
  • 608年|隋の皇帝場帝は答礼使斐世清を派遣→高向玄理・南淵請安・僧夏ら留学生を連れて、帰国
  • 618年|障が滅び、唐がおこる
  • 620年|『天皇記』『国記』の成立…厩戸王と馬子が編集しはじめたとされる歴史書

舒明天皇の頃

  • 630年|遣唐使の派遣…犬上御田鉄の派遣

聖徳太子

厩戸王(聖徳太子)は、最初の女帝である推古天皇の甥、用明天皇の第2皇子で、推古天皇の皇太子、摂政となり、蘇我馬子と協力して、中国や朝鮮に学び、大王(天皇)中心の政治を、次のような政治を行いました。

冠位十二階の制度

家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を役人に取り立てる制度

十七条憲法

仏教や儒学の教えを取り入れ役人の心構えを説いた憲法

<よく入試に出る部分>

一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか枉(ま)がるを直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下靡(なび)く。故に詔を承りては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。

遣隋使

小野妹子などを隋の進んだ制度や文化を問い入れるために派遣

飛鳥文化

聖徳太子や蘇我馬子を中核とする大和政権が、仏教を保護し信仰をすすめたことから、都のおかれた飛鳥地方で、天皇や豪族を中心としたわが国最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えました。

飛鳥文化は、遣隋使や渡来人などによって伝えられた中国・ギリシャ・ペルシャ・インドなどの文化の影響を強く受けて、国際性のある文化となっています。

寺院

  • 法隆寺…現存する世界最古の木造建築で、国際色豊かなエンタシスの柱が特徴。若草伽藍跡が見つかったことで、 法隆寺再建説浮上。北魏様式の夢殿救世観音像
  • 飛鳥寺…蘇我馬子の命で建てられる。日本最初の寺。北魏様式の釈迦如来像。
  • 広隆寺…南梁様式の半跏思惟像(弥勒菩薩像)

絵画・工芸

高句麗の僧である曇徴が紙、絵の具を伝え、絵画・工芸も発達。代表的なものは、法隆寺玉虫厨子や中宮寺天寿国繍帳。

その他

厩戸王(聖徳太子)が記した仏教の注釈書「三経義疏」百済の僧観である勒が暦法・天文を伝えたこともおさえておきましょう。

あわせて確認

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